希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は自分の生き方を指図されたくない件〈再掲〉

やたらと人の生き方や働き方に口を挟む輩がいる。

自分の狭い範囲での経験、底の浅い人生観・価値観を押し付けてくる。

自分と異なる価値観が認められないし、もし認めると自身のアイデンティティが崩れると恐れている。

僕はその手の輩の言葉には耳を貸さないことにしている。

 

初出 2014/12/2

 

僕は独身であり、母親と同居しているパラサイト・シングルである。おまけに働いているとはいえ正社員ではなく非正規雇用である。

僕は(今のところ)結婚する気は全くない。まあ、僕みたいなダメ人間と結婚したいという奇特な女性がいるとは思えない。

正社員として働く気もさらさらない。カネよりも自由な時間の方が大切だと考えているからだ。週に40時間以上も拘束されるなんて、今の僕には堪えられない。

この典型的なダメ人間的生き方は、僕が最近になってようやっと辿り着いた僕なりの心地よい生き方である。

社会的地位や世間の評価など僕には不要である。他者からダメ人間だとか負け犬だとか言われても一向に構わない。仮にそう指摘されても、「ではあなたは人生を楽しんでいますか」と返すことにしている。

 

人の生き方は多種多様であるべきだ。

ひとつの価値観をもって「正しい生き方」を決めるなんて無意味なことである。

人それぞれ成育歴や環境、考え方が違っているのは当然であり、その結果生き方も人それぞれに異なってくるのは当たり前のことである。

 

しかし、世の中には他者の生き方をあれこれ指弾したがる輩が多くいる。その本人は相手のことを思って指摘してるだけだと、善意であると思い込んでいる。だから余計に質が悪いし、始末に負えない。

何のことはない、そういった他人の生き方に介入したがる人たちは視野が狭くある価値観に凝り固まっているだけなのだ。自分の価値観が絶対で正しいと信じ込み、他の価値観を認めることができないだけなのである。また、他者の生き方を認めると、自分の価値観を否定されると恐れているのだ。自分の価値観に沿っていない生き方を許せないのだ。

また、その正しいと考えている価値観は、世間で流布されている一般的な価値観の焼き直しに過ぎない。

人は「異端」を排除せずにはいられない本性を持っている。自分は「正統」に属していたいという本能を持っている。

自分の価値観と異なった生き方を認めたくない心情は理解できなくもない。

 

僕は、特に生き方や働き方についてはできうる限りの「自由」を認められるべきだという考えを持っている。この点においてはリバタリアンの考え方に近い。人の「自由」な行動は広く認められて良いと思っている。ただし、社会構造の歪みをもたらし、極端な貧富の差を生む新自由主義的な考え方には強い違和感を持っている。

 

僕は自分の生き方を他人からあれこれ言われる筋合いはないと思っている。

僕は自分の生き方を指図されたくない。

たとえ僕の生き方が間違っていても、結果として困窮し追い詰められても、自己責任であり、その状況を受け入れる覚悟を持っている。

 

僕は世間の隙間を縫って生き延び、無名のままに人生の終焉を迎えようとも、自分の生き方を全うしたい。