正義に凝り固まった言説には眉に唾をつけて向き合う態度が必要だと思う。
100%の正義なんてありえないし、そんなものが存在すること自体が恐ろしい。
歴史上、正義の名の下に繰り返されてきた惨劇を忘れてはならない。
初出 2014/9/16
近年薄っぺらい「正義」を前面に押し出した言説が多いように思う。
自分が正義だと信じ込めば思考停止に陥る。異論を封じ込めることにもなる。この危うさに気づいていない人たちが多すぎるように思えてならない。
自分の正義を絶対視するような態度はひとつのイデオロギーを信奉し、排外的になり、異論を持つ者を抑圧することにつながる。
かつての大虐殺や社会の大混乱等は「正義」の名の下に行われたケースが多い。
ナチスや毛沢東の文化大革命やポル・ポトなど、自らが絶対的な正義だと信じ込んで大殺戮を引き起こしたのである。
己の正義に反する者は生きるに値しないと断じて躊躇なく抹殺する行為に末恐ろしいものを感じる。また、人間が背負った「業」をも感じる。
僕たちはこの「正義」という言葉に弱い。
最後には「正義」が勝つという勧善懲悪的なストーリーに拍手喝采をおくる。ハリウッド映画や時代劇を観て爽快な気分になる。
この世に絶対普遍的なイデオロギーが存在しないように、絶対的な正義など存在しない。
ある「正義」は、その正義が実現されることにより利益を得る特定の人たちがその利益の増大を図って広めるものに過ぎない。
このような醒めた目である正義を見つめる態度が必要となる。
この国でも「正義」教的なものが幅を利かせている。
原発を廃止せよという意見や環境を守ろうという意見は正論である。正義であるといってもよい。原発をどんどん建設しろとか、環境を破壊しても構わないなんて意見はとても言えない暴論である。
しかし、膨大な量の電力を安定供給するシステムは今のところ原発以外にない。僕たちが豊かな消費生活を送るためには大量の電力を安定供給するシステムが不可欠である。
また、僕たちがモノに溢れた生活を営むためには環境を破壊せざるを得ない面があることも否定できない。
これらのような反論をすると、「正義」の側に立つ人たちからは「資本主義の権化・手先」「物質文明主義者」とのレッテルを貼られてしまう。
ひとつのイデオロギーに凝り固まった人たちに対してどのような反論(客観的にせよ論理的にせよ)をしても徒労に終わるだけとなる。
市民社会の「正義」が異端者や少数者のマイノリティを排除することが多々あるし、下手をすれば抹殺することもある。
精神障害者を隔離収容しろとか、昼間にうろうろしている人を「不審者」として通報しろなどとそれこそ人権侵害になりかねないことを平然と主張する。人権思想を金科玉条とする市民社会の正義が、人権を侵すという矛盾に気づかない。
僕たちは「正義」の背後にある暴力装置に警戒しなければならない。
僕は声を大にして言いたい。
「正義」を疑えと。