希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕はヒマ人だけれども退屈ではないという件〈再掲〉

僕は常にヒマ人であり、またそうあろうとしている。

忙しければ余計なことは考えない。しかし、僕はヒマ人であることで「余計なこと」を考え続けようと思っている。

 

初出 2016/11/1

 

僕がヒマ人的生き方をするようになってから随分と経つ。

自分がヒマ人だなんて全く自慢できることではないのだけれども、あくせく働いていた頃よりもずっとストレスが減ったのは何より嬉しい。

同じビンボーなら「貧乏暇なし」よりも「ビンボーヒマだらけ」の方がずっといい。理想としては「ビンボーちょっと小金あり」状態なんだけどこれ以上の贅沢は望まないようにしよう。

 

僕がこのブログで、あるいは会う人たちにヒマ人だと言うと(ついでにビンボーだとも言っているがこちらはスルーされる)中には「退屈ではないか」と問われることがある。

そういう人たちのご期待に沿えず、僕は全く退屈はしていない。

生活費を稼ぐためにやむを得ずちょっとだけ働く時間以外の自由になる時間は世のサラリーマンよりは豊富にある。本を読んだり、ネットを徘徊したり、散歩したり、喫茶店に行ったり、古本屋に行ったり、ラジオを聴いたり・・・とやることは沢山ある。あっ、それとこのブログを書いたり、ブログのネタを考えたりすることも大切な時間である。

そうこうしているうちにあっという間に1日は終わる。退屈どころか時間が足りないくらいだ。

僕の時間の過ごし方はほとんど経済成長に寄与していない。生産的ではないし、一見成長だとか自己啓発には無縁な過ごし方である。読書にしても、人生や仕事に役立つからだとかいう考えはなくて、ただ自分の興味の趣くままのものである。僕は全くのダメ人間だけれども、知的好奇心は人一倍強くて、それが満たされるだけで楽しくて面白いのである。

 

僕は予定がぎっしり埋まっていないと不安だという人たちの気持ちがずっと理解できないでいる。以前僕が人並みに仕事をしていたときにも、周囲にはスケジュール帳を真っ黒にしなければと強迫観念に囚われていた人がいたけれども、その人たちは何かに追われているかの如く日々を過ごしていた。僕はその頃からスケジュールが埋まることが嫌でたまらなかった。手帳に予定が書き加えられるたびにため息がこぼれていた。予定が埋まるということは売り上げにつながることだけれども、素直に喜べなかったのだ。こんな奴がフリーランスで成功するわけがない。サラリーマンとしても出世するわけがない。時々、僕は資本主義体制の下では生きていけない人間なんじゃないかと思ったりしている。

 

僕は何のかんの言っても今のヒマ人生活を続けていきたいと思っている。ヒマ人であるということは自分なりに「自由」を手なずけていることだと考えるからだ。

もし、今の生活で「退屈」さを感じることになったときには、また生き方のモデルチェンジをしなければならない。思い返してみると、僕が退屈さを感じたのはたくさん働いていた頃で自由な時間が意に反して奪われていたときだった。

ヒマ人的生き方を続けているかぎり、僕は退屈だと感じることはない。

ダメ人間、ビンボーヒマ人としての誇りである。

 

  

僕は「はみ出し者」として生きていきたいという件

僕は勤労意欲が低くてとても会社に雇われて正社員として働き続けることができない。これまで何度も正社員として働くことを試みたけれどもどこも長続きはしなかった。

世間で言うところの真っ当な生き方ができないダメ人間なのである。

以前は自分がダメ人間である、ということが受け入れられなくて無駄な足掻きを繰り返していた。

 

世の中の大多数を占める雇われ人という生き方ができないのならば、フリーランスという生き方をするしかないと考え、僕は社労士の資格をベースとしてコンサルタントもどきの仕事を10年余り続けた。

フリーランスという生き方・働き方は僕の性分に合っていたように思う。不安定さも慣れてしまえばどうってことはない。先が見えないということは考えようによっては光り輝く未来が待ち受けているととらえることができる。

 

僕がフリーランスで働いているときに時々自分は世間の「はみ出し者」だと感じたことがあった。僕の思い違い、被害妄想の類かもしれないけれども。今でもこの「はみ出し者」感を抱くことがある。

どっぷりと所属する組織がなくて社会的地位や肩書がない状態、むき出しの個人として世の中と向き合っていると足場がなくてフワフワとしているな、感じるときがある。

 

この「はみ出し者」感はネガティブなことばかりではない。

世間のしがらみから完全には逃れることはできないが、かなりの程度緩和されている。ある程度は自由な生き方ができている。この「自由」には自己責任が伴うが、受け入れ可能なものであって、悲壮感とは程遠い。

要は自分の食い扶持分は何とか稼ぎ出して、後は野となれ山となれ、といった感じのものである。世捨て人にはならなくても、世間とは一定の距離を取った生き方である。

 

僕は世のサラリーマンをはじめとする「真っ当な生き方」をしている人たちは何と忍耐強いのか、と感心するばかりである。不平や不満は沢山あるのだろうけれども、それらを手なずけて確実に日々の生活を営んでいることに尊敬の念を覚える。

それらの市井の人たちを批判することは容易いし、僕も時たま批判めいたことをしている(サラリーマン根性に毒された人たちに対する批判等)が、決して貶めようと意図しているわけではない。

やはり、人は真っ当に生きた方が良いに決まっている。

 

僕は人より抜きんでたものを持っているわけではない。それなのに真っ当に生きることができない。真っ当に生きようとすると、僕の心と体がそれを拒もうとする。

好むと好まざるとに関わらず、僕はやはり「はみ出し者」として生きざるを得ない。

世間のどこか片隅に自分の居場所を見つけるしかないのだ。

少しばかりの反骨心を持ち、「寄らば大樹の陰」的な生き方を拒みながらも。

 

 

人を見かけだけで判断するな、というのは果たして正しいのかという件

僕たちは無意識の裡に人を見かけで判断している。

第一印象が後々まで尾を引くという話もある。

ぱっと人を見てその人が信頼に足るのか判断するというのは元々人に備わった本能なのかもしれない。

 

「見かけ」というのはその人のルックスやスタイルの良しあし、美醜だけを指すのではない。身なりや物腰などの方が重要な判断基準となることが多い。相手が清潔感のある服装をしていれば何となく安心するし、柔らかい物腰の人であれば何となくこの人はいい人だなと判断する。正確なエビデンスがあるわけではないが、そのように人を見極めるのである。

ある人に対する見かけによる判断は後々付き合っていくとそれが合っていることもあれば誤っていることもある。つまり、人を見かけで判断することは正しいとも言えるし、見かけだけで判断することは正しくないとも言える。

まあ、当たり前の話ではある。そう単純にある人の人となりは他者には分かるはずはないからである。

 

しばしば見受けられる言説として人をその装飾品や持ち物で判断しろ、といった類のものがある。自己啓発系の著書に多い。

「男は腕時計と靴を見て見極めろ」とかつては言われていた(今もそうかもしれない)。僕はこの手の言いぐさが大嫌いである(とは言いながら足元には気を付けていたけれども)。どんなに品性下劣な輩でも、カネを出しさえすれば見栄えの良い腕時計や靴を身に付けることができる。一方でたまたま今はカネがなくて見栄えの良い靴を買えない人もいるし、元々が身なりに無頓着な人もいる。深く付き合わなければその人の品性は分からない。相手の身に付けているモノによってその人を判断できるという考え方は底が浅い人間観を露呈している、と僕は思う。

 

詐欺師は一見立派な自宅や事務所を構え、高価そうな服装をして相手を騙すという。スーツを着て泥棒に入る窃盗犯もいる。

これらはいかに人が見かけに騙されるかを物語っている。

 

人を見かけで判断するということは、その見かけによって偏見を持つことである。

偏見を持つことは良くない、これは正論である。

しかしながら、人は誰でも偏見の塊である。

公明正大に偏見なしに生きていくことはとても難しい。

僕たちは常に偏見を持っていることを自覚しつつ、その偏見を払拭するような努力を忘れないようにする、という態度で事に当たるしかない。

となると、人を見かけだけで判断してはいけないぞと思いつつ、ある程度は見かけで判断してその後の関わり合い方を決定するという態度を取り続けることがベターな方法であるといえる。

 

僕としては、見かけだけでダメな奴と見られるのは面白くない。

相手を見かけだけで判断してその後の関わり合い方に悪い影響が出るのも避けたいところだ。

でも、見かけの第一印象が良い意味で外れた時の楽しさ、嬉しさは何事にも代え難い。

僕も良い意味でのそのような見かけ・第一印象から「外れる」人となることができれば、こんなに面白いことはない。

 

 

 

 

 

格差のない、平等な社会はユートピアなのかという件

僕はこのブログで貧困問題は是が非でも解決しなければならないと主張している。人として生まれたからには何人も人間らしい生活を営むという権利を享受すべきだという考えがあるからだ。 

しかしながら、僕は格差が生まれることを否定しない。人はすべて平等であるべきだとも思っていない。

確かに行き過ぎた格差はある程度は是正する必要があると思う。例えば1%の富裕層が99%の富を独占するなんてことはあってはならない。「常識」や「良識」に照らし合わせて異常なことだからである。でも、例えば10%の上位層が50%の富を占めているような状況は是認できる。競争を否定することは社会の活力を削ぐおそれがある。

 

この「競争」は機会の平等が担保されていなければならない。絶対の必要条件である。世襲で富や権力が受け継がれるような社会はゴメンだ。誰もがチャンスのある社会が理想である。生まれや家柄で人生が決まるなんてことは不条理である。

 

僕は「謂れのない」差別には断固として反対する。国籍や人種や性別、特定の地域に生まれたことによる差別は廃絶しなければならない。

しかし、僕は平等主義者ではない。

評論家の呉智英さんが「差別のある明るい社会」が正しいと論破していたが、僕もこの考えに概ね同意する。

人は皆平等である。これは理念としては正しい。

けれども現実は人は平等なんかではない。この社会は不平等の塊である。人は不平等であるという事実を受け入れて生きていかなければならない。

例えば学歴による差別や職業による差別は現に存在する。僕はこれらの差別は相対的なものに過ぎないと考える。時代や社会情勢が変われば差別の実相も変わってくる。学歴差別は確かにあるが、この社会では抜け道的なものが沢山ある。学歴が無くても良い生活を送る術がまだまだある。学歴が関係しない職域が沢山ある。

職業の貴賎も時代によって変わっている。医者や弁護士、会計士等は昔はステータスのある仕事ではなかった。現状は忌避されている仕事が将来にはステータスのある仕事に変わることは十分にありうることである。

 

格差や不平等が固定化されることが問題なのである。ある特定の階層が利権を享受し続け世襲化されることがダメなのである。ある特定の階層が不利益を被り続けることが不条理なのである。

特権層や既得権益を享受できる層が己の都合の良いように社会システムを構築し、不利益を受ける層が抵抗できない社会になることは是非とも避けなければならない。

持たざる者たちは抵抗するための力を常に蓄えておかなければならない。

 

格差や不平等が一概に「悪」だとは言い切れない。

この不条理を活動の源として、社会を発展させてきた面もある。

この不条理を克服するために、人は闘争し、様々な権利を獲得してきた歴史がある。

遠い未来に平等で格差の無い社会が実現されるかもしれない。今はその過渡期という考え方もできる。

あるいは人は他者を差別せずにはいられないという本性を持っているのかもしれない。格差の無い社会、平等な社会とは所詮絵空事なのかもしれない。

人は格差の無い社会、平等な社会を志向するのか、競争社会を是認し不平等な社会、格差社会を志向するのか僕には分からない。

 

今は、格差や不平等を受け入れつつも、貧困を克服することが現実的な向き合い方だと僕は思っている。

 

 

  

職業に貴賤はある。だが絶対的なものではない件〈再掲〉

社会的威信の高い仕事は時代によって変わる。

今は「いい仕事」とされているものでも昔は賤しいとみなされていた仕事は幾らでもある。

職業に貴賤あり・なしとする議論は意味がないのかもしれない。

 

初出 2016/10/27

 

職業に貴賎は無い、という物言いは建前であり、偽善的なものの最たるものである。

あえていう必要もないが、職業には貴賤がある。今も昔も。

現在の社会において「貴」と見られる職業は報酬が高く、社会的威信の高い仕事である。例えば、高級官僚、医者、弁護士、有名企業の正社員、銀行員、大学教授等が上がってくる。

「賎」については、報酬が低くて、人の嫌がるような仕事が多い。社会的威信も低い。サラ金では貸さない職種があるそうだが、それとこの「賎」の仕事は重なると推測される。

 

理想を言えば、職業に貴賤なんかない方が良いに決まっている。人それぞれの希望や適性に応じた仕事を選んで、社会的威信や収入に差が無い社会が理想郷である。

しかし、現実はそうとはいかない。キューバでは労働者であれば職種に関係なく報酬がある程度一定らしいが、それはそれで問題が山積していると聞く。

 

ある仕事に従事しようとするときに、学習の期間(学歴)、資格制度の有無やその難易度によって仕事間格差、職種間格差が生じる。このことは機会の平等が担保されていれば、合理的な差別だと考えられているし、僕もそう思っている。

しかし、インドのカースト制、近世の日本の身分制の際に見られた一部の職業への賎視は別物である。不浄や穢れといった観念に基づく職業の貴賤観は現代に生きる僕たちが必ず克服しなければならない大きな課題である。

 

一方で職業の貴賤は絶対的なものではない。時代とともに変化する相対的なものである。

以前のエントリーで医者や芸能が近世以前には賎視された仕事だと書いたことがある。これはこの国だけではなくヨーロッパ諸国でも同様に見られたことである。

 

例えば、銀行員である。金融危機以降に若干社会的威信は低下したとはいえ未だに報酬も社会的地位も高い職業である。

この国では中世、室町時代の頃まではカネを扱う仕事は賎視されていた。賎視は言い過ぎだとしても、決して社会的な地位は高くなかった。モノを作らずに、カネからカネを生むような仕事は世間から忌避されていたのだ。これは中世ヨーロッパでも同様である。だから賎視されていたユダヤ人が金融業に進出せざるを得なかった事実がある。

資本主義の勃興により金融の役割が重要となり、金融に関わる仕事の賎視が消滅したのである。

 

中世のヨーロッパで金貸し以外に賎視されていた仕事に、刑吏、税金の徴収人、理髪師、外科医、煙突掃除人、風呂屋、歯科医等がある(もっと沢山あったが忘れてしまった)。現在と比べてどうだろうか。時代が変われば賎視される職業・仕事が変化する。要するに仕事に関する貴賤観なんていい加減なものなのである。

 

現実には世間ではその人の就いている職業によって見下したり馬鹿にする人が多くいる。

その行為を非難するだけでは何も解決しない。時には非難する行為が偽善的になりさえする。

職業差別するような人は放っておくしかない。

案外、そのような人は抑圧され、自分の思うように生きられない悲しい人なのかもしれない。

  

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します