希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「忙しい」ことが善とされるこの社会はおかしい、という件〈再掲〉

世の中の多くの人たちは忙しさを競い、忙しさ自慢をしているように見える。

とても滑稽なことである。

忙しくなければ真っ当な社会人ではないという思い込みに毒されている。

この風潮も滑稽である。

 

初出 2018/5/24

 

僕は何度もこのブログで自分は「ヒマ人」であると公言している。自慢しているわけではなく、ちょっとばかり自分を卑下している。と同時に「忙しいことは良いことだ」というイデオロギーに抗っている。

 

今でこそヒマであることを誇っている(?)僕ではあるけれども、20代・30代の頃は忙しい自慢をしていた。スケジュール帳の余白がなくなることに喜びを感じ、やるべきことでもないのに「しなくてはならないこと」だとして時間の隙間を埋めていたのだ。

ヒマそうにしている人を見聞きすると、「あの人は使えない人」だと勝手に決めつけていた。今にして思えば本当にどうにかしていたのである。

 

世間では、忙しい人、忙しそうにしている人が有能だとみなされている。

その同調圧力はかなり強いものがある。

多くの人たちは本当は忙しくないのに忙しいふりをしていたり、無理やり自分を忙しい状況にしていたりする。

僕は嬉々としてスケジュールを埋めて、忙しい自分に陶酔している人を何人も見てきた。それらの人たちが本当に有能だったのかといえば疑問符が付く。

 

僕は誰もが僕のようにヒマ人になればいいとは思っていない。僕のようなダメ人間が増殖すればこの社会は回らなくなるに違いない。

ただ、多くの人たちがそこそこスケジュールがつまっていて、適度に休みがある状態になれば、生きやすい社会になるのではと僕は思っている。ある程度の「ゆとり」や「ゆるさ」がなければ効率性も落ちるのではないだろうか。

ぎちぎちのスケジュールに振り回され、余裕をなくした常態となれば、トラブルが起きたり人間関係がギスギスしたものになって、結果として良いパフォーマンスを発揮できなくなる。

 

「忙しいことが良いこと」だという風潮が蔓延しているのは、「人は常に勤勉でなければならない」という勤勉至上主義イデオロギーが人々を捉えているせいだと思う。このある種の精神主義が「忙しいことは良いことだ」という風潮を作り出している要因のひとつになっている。

あるいは資本主義体制を成り立たせ、それを突き動かすドグマが「忙しいことは善」というイデオロギーもどきのものを作り出している。

 

忙しい人たちや忙しそうにしている人たちは、実は非効率な動き方をしているだけなのかもしれない。実は周囲からの同調圧力にさらされて、忙しい「ふり」をしているだけなのかもしれない。忙しいことに本当に喜びを感じているのはほんの一握りのワーカーホリック的な人たちなのかもしれない。

僕は根っからの怠け者なので、忙しいことをよしとしている人たちの気持ちが理解できないでいる。僕も若いころは忙しそうにしていたが、本心ではどうだかなぁと疑問を抱いていたように思う。その疑問を打ち消すためにより一層、自分を忙しくさせていた節がある。ヒマそうにしている人に対して「使えない奴」とのレッテル貼りをしていたのは、そうでもしないと自分が否定されるような気がしていたからである。

 

「忙しいことが善」というイデオロギーもどきはそうそうは消滅しないだろう。

この疑似イデオロギーは人を評価する基準となっている。

この強固なものに正面からぶつかっても自分が砕け散るだけである。

僕は自分がヒマ人であることを公言しつつ、細々と世間の隙間を縫って生きていくしか、今のところ手立てがない。

まあ、仕方がないか。

 

 

  

「ほどほどに」「頑張りすぎない」をモットーにしていきたいという件

僕はもう人生の折り返し点を過ぎたと自覚している。

人生の後半部分を生きているのだ。

体のあちらこちらにガタがきている。

後はもう、下り坂をそろそろと下りるようにして生きていくものだとの諦念がある。

しかし、僕はこのことを悲観していない。

 

何度もこのブログで言っているように、僕はダメ人間である。

がむしゃらに働くことはもうできない。成長や自己実現なんてさらさら考えていない。

ダメ人間を極めようと思っている。「極める」といってもぎちぎちに頑張るわけではない。あるがままの自分を受け入れて、飄々とした態度でいきたい。

 

僕にははっきりとした目標設定はない。

あえて言えば、毎日を面白楽しく過ごすということだけだ。

そのためには何事も「ほどほどに」ということと、「頑張りすぎない」という生活態度を崩さないようにする。

今の僕にとって、これらの生活態度が有効な生存戦略であるとの確信がある。

人との競争に打ち勝って経済的豊かさを得たり、社会的地位を獲得しようなんて野望は微塵もない。

安心感が得られる居場所を確保し、友人知人と共生しながら、ゆるゆると生きていきたい。

 

こんなことを公言すると、おそらく僕は「もう終わった人間」だと言われるだろう。

僕はそれでも全然構わない。

世間で真っ当とされている人たちの度量衡からすれば、僕は終わった人間である。しかしながら、全く終わったわけではない。経済成長至上主義や労働至上主義的な価値観からちょっとだけ外れた生き方をしているだけなのである。

多数派の価値観が唯一絶対なものというわけではない。

「みんな」がしていることが必ずしも正しいわけではない。

多数派を形成している人たちからの「ズレ」が一面の真理を表象することだってある。

 

今の世の中で「ほどほどに」とか「頑張りすぎない」で生きるには様々な障壁があることは確かである。

同調圧力という厄介なものがある。

均質化圧力という厄介なものもある。

ここで肩肘張ってしまえば、意味がなくなる。

他者からのあるいは世間からのプレッシャーを軽く受け流して、涼しい顔をしてやり過ごすに限る。

同調圧力や均質化圧力から逃れ、それらに抗う営為が僕にとっての自由である

 

「ほどほどに」と「頑張りすぎない」という生き方を僕はもう捨て去ることができない。

この歳まで生きてきて、ようやくたどり着いた境地である。

この僕が抱いている価値観が正しいものなのかどうかは僕には分からないけれども、不快さを感じていないから、僕には合ったものだと思っている。

 

僕が志向する生き方は、とても贅沢なものなのかもしれない。

僕はこの贅沢を味わい尽くしたいという野望がある。

 

 

「自己責任論」を僕なりに考えてみるという件

僕は巷間にあふれている自己責任に関する言説に強い違和感を抱いている。

かと言って自己責任を全否定するものではない。

人は自分のなした言動にある程度の責任は持つべきであると考えている。

しかし、この国においては、弱者ばかりに自己責任を負わせ、強者は(政治家や官僚、大企業とその経営者等)自己責任を逃れているという倒錯した状況になっている。

この点に僕は強い怒りを覚えるのである。

 

僕が自己責任論的なものを肌感覚ではじめて味わったのは高校に入ってからのことだった。

僕が入学した高校はローカル・レベルだけれども学区のトップ校である進学校だった。

授業の進度(特に数学と英語)が中学校の時の数倍の速さで、予習をしていないととてもついていけないものだった。しかも高校の教師は生徒が皆理解していることを前提に授業を進める。当時は補習等の学校側のフォロー体制が皆無で、理解できなければ学生の自己責任とされていたのだ。学生の方もその点は心得ていて、「教え方が悪い」とか「早く進めすぎだ」といった文句など全く出ることはなかった。理解できないところがあれば、個別に教師に質問に行くか、出来の良い他の生徒に聞くかして(あるいは塾や予備校に通うことによって)自力で解決するしかなかった。

僕は高校時代のこの経験によって、自己責任のメンタリティを養ったのである。

 

僕は大学時代、働くようになってからも自己責任という考え方に疑いを挟むことはなかった。

潮目が変わったのは社労士事務所を廃業し、うつを罹患してひきこもり生活を余儀なくされた時だった。

「この状態はどう考えても、俺だけの責任じゃない」と感じ、ひとり自分だけに責を負わせる考え方には無理があるとの考えが脳裏をかすめた時、自己責任論の呪縛から解き放たれたのである。

 

貧困は自己責任である、という言説が未だに蔓延っている。

この考え方は産業革命を経て、資本主義の矛盾が露呈した頃のヨーロッパ先進国、特にイギリスにおいて唱えられたものである。貧困は努力や能力の不足によるものであって、国家は貧困世帯に対しては恩恵的に恤救はするが、その内容は劣等処遇の原則(最下層の労働者の生活レベル以下の処遇)に貫かれたものだった。

生存権の概念はワイマール憲法を嚆矢とするとされているが、社会主義的な施策(時としてファシズムの施策も混入して)が導入されることにより多くの先進国でそれが実現した。

この国でたびたび起きる生活保護バッシングは前世紀の遺物である劣等処遇原則と貧困は自己責任であるという考え方から脱していないことを表しているといえる。

 

僕は何でもかんでも社会システムのひずみや他者のせいにするという考え方には同意はできない。

ある場面においては自己責任、またある場面においては国家や社会の責任というように分けてとらえるべきだと思っている。

ただ、他者に向かって自己責任論を押し付ける態度は間違っていると思う。それは責任を相手にすべて擦り付けて、自分だけは責任の埒外に身を置くという無関心・無責任な態度である。

国家が自己責任を声高に言い募るときは、国家の責任を逃れるための詭弁を弄するときである。主に社会保障の実現という責務から逃れ、生存権の保障という現代国家の主要な責務から逃げようとする意思を表しているのである。

 

自己責任論が声高に唱えられる社会は間違いなく生きづらさが充満したものとなる。

様々なきっかけによって幾度となく自己責任論が再燃するこの国のこの社会の歪さは一朝一夕では改まらない。

しかしながら、僕たちはこの社会の中でその成員として生き続けることになる。

生きづらい世の中を急には変えることはできないけれども、そのための足掛かりを築くために、自己責任という圧力に抗うような手立てをひとりひとりが微小な力でも続けるしかない。

「努力をすれば報われる」という嘘を垂れ流し続けるのはやめようという件〈再掲〉

僕は努力至上主義的な考え方が好きではない。悪しき精神論につながるからである。

また、生活に困窮した人たちに対して「努力しなかったからだ」と突き放す態度は無責任である。悪しき自己責任論である。

努力しようにもできない状況にある人たちがいる、ということを想像し、理解しなくてはならない。

 

初出 2018/5/17

 

僕は「努力をすれば、必ず報われる」というのは嘘っぱちだと確信している。

この一見尤もらしい物言いは多くの人たちを傷つけている。

半世紀の間生きてきて、努力しても結果が伴わないことの方が多いということを痛感している。それが人生だということなのだ。

 

世の中の多くの人たちは知っている。

ある分野で成功に至った要因は、実は運であったり、時の流れに乗っただけであったり、持って生まれた資質によるものであったりで、努力というものは決して決定的な要因ではないということを。

しかし、努力することが良いことだというイデオロギーを否定すると社会の不安定化を招く恐れがあり、権力者やそれに連なる層は困ることになるのである。

 

確かにあることを為そうとするときは努力は必要である。全くの努力なしで社会の上層に達せるのは特権階級に生まれ、その既得権益を受け継いだ世襲の子女だけである。

いわゆる「普通の」家に生まれた圧倒的多数の人たちは何らかの努力を続けなければ浮かび上がることはできない。

 

人は生まれながらにして差がある。それは能力や資質の差であり、生まれた家の社会的威信・資産・文化資本等である。

そして、「努力をする能力」「努力をし続けられる能力」にも差がある。

教育関係者に多く見受けられるが、人の能力は生まれながらに平等であるとか、努力する能力は平等である、という幻想に囚われている。

この平等幻想が「努力すれば報われる」という努力至上主義イデオロギーを蔓延らせるひとつの要因となっている。

 

僕は努力することを全否定したいわけではない。努力やプロセスを放棄してただ気ままに怠惰に生きろという極論には首肯できない。

何事かを為すため、結果を出すためにはそれ相応の努力は必要である。当たり前の話である。

 

ただ、生まれついた家の資産や文化資本の差や、遺伝的に伝えられた資質や能力の差を度返しして、努力を強いる態度はいかがなものかと、ちょっと懐疑的になっているだけなのだ。

繰り返しになるが、残念ながら人は平等に生まれついてないし、差がある。

また、殆どの努力は報われないし、努力をする能力そのものが人によって差がある。

この厳然たる事実を直視しなければならない。

お花畑的に「やればできる」という甘言を投げつけて、後は放置して、その人の意欲を削いでしまう事例があまりにも多い。

 

努力至上主義的イデオロギーはすぐさま自己責任論に結びつく。

結果が出ないのは努力が足りなかったからだ、と個人のみに責任を押し付けることになる。ある人が報われないのは多くは(全てではないが)環境や社会システムの歪みに起因するものである。また、運の良し悪しにもよる。

結果=努力とする思考様式は危険性を孕んでいるものだとの意識を持たないと、思考停止に陥ってしまう。

 

「努力はしなくてはならないものだけれども、それはほんの一部が報われることがあり、殆どは報われない、でもそれで十分なのだ」程度の認識でいいのではないか、と僕は思っている。

努力をする能力がほんの少し欠如していたり、努力を続ける環境に恵まれていなければ、その人に対して無理して努力を強いることもない。

想定する結果を得られなくてもいい。

不完全ながらもそこそこ満足できるような生き方ができればいい。

自分の「居場所」を世間のどこかに確保して、自分の存在意義を認めることができればそれでいい。

このように考えてしまう僕はやはりダメ人間なのだろう。しかし、それでもいいと思っている。 

「べてるの家」についての本を読むたび、僕の心は洗われるという件

心が弱ったとき、生きていく力がどうしても湧きあがらないときに手に取る本が幾つもある。そのうちのひとつが「べてるの家」について書かれた一連の著作である。

僕はそれらの本を幾度となく読み返している。

 

べてるの家」とは北海道の浦河町にある精神障害者や回復者の自助コミュニティのことである。単なるお仕着せの就労支援施設とは一線を画すとてもユニークなコミュニティである。

元々は浦河にある精神病院の患者たちが寄り集まってできた自助組織である。

そこから発展して、現在では社会福祉法人や株式会社を設立し、自らの手でビジネスをし、地域社会に溶け込んでいる。精神病を患った人たちが当事者としてかかわっているところに特徴がある。今では国内の各所から、あるいは国内にとどまらず海外からも視察者が多数訪れている。

 

べてるの家」を構成する人たちは「軽い」精神病患者ばかりではない。中には他の精神病院から受け入れを拒まれたような「手の付けられない」人もいる。

そして、「べてるの家」の人たちは病気が「治らない」ことを受け入れて(時には喜んで)、いかに病気と共存して生きていくかを模索し続けている。そして、「ゆっくりと降りていく生き方」を実践しているのである。

僕は「べてるの家」についての本を読むたびに登場人物の数奇な人生にあるいは厳しい状況に置かれてもなおも生きようとする営為に素直に感動する。

同時に医療や福祉の限界についても思いを至らさらざるをえなくなる。

確かに精神医療は格段の進歩を遂げている。有効な薬品も開発されている。しかし、医療行為では患者に病名をつけて、その病気が完治することしか目指していない。病気が完治あるいは寛解した後の人生については預かり知らぬところである。

福祉の領域においてもそこそこの制度は揃っている。しかしながら、お仕着せの就労支援や地域活動支援が幅をきかせていて、患者や元患者の「幸福な生きざま」についてまでは考えていない。

 

僕は「べてるの家」の営為はある種の「先祖返り」なのかもしれない、と思っている。

精神病に罹患した人たちを共同体から排除し精神病院に隔離しはじめたのは近代に入ってからである。

精神病院というものが成立する以前は「狂人」扱いされ忌避されつつも他方で「聖なる者」として見られたりもしていた。狂人あるいは聖なる者として共同体の中で共生していたのだ。時には「魔女狩り」のように社会から排撃・排除されるようなこともあったが、「そういう人」として共同体に包摂されていたのである。

べてるの家」に集う人たちは全面的に医療や福祉に依存せず、自らの共同体を創り上げ、他の共同体との共生を目指しているところに「先祖返り」をしているのではないかと思えるのである。

 

僕は「べてるの家」に関する本を読んでいて、感銘するところが多々あるけれども、特に「降りていく生き方」という考え方に共鳴するのである。

経済成長に資するような生き方だけが人生のありようではない。世間でいうところの真っ当な生き方だけが正しい生き方ではない。

自分なりに人生の意味を見つめて、「生きる力」を蓄え、結果として実りのある人生にすること。それだけで十分なのではないか、と思えるのである。

経済的成功や社会的地位なぞは副次的なもの、あるいはそれ以下のものに過ぎない。

たとえどのような人生であっても、その人なりに全うすれば立派な人生なのである。

 

僕はこれからも何度も「べてるの家」関連の本を読み返すことになるだろう。

その度に思い知ることになるはずである。

「降りていく生き方」は決して後ろ向きのものではなく、わずかでもあるはずの希望の光を見出すためのものであることを。

 

【僕が読んでいる「べてるの家」関連の書籍】

・『「べてるの家」から吹く風』 向谷地生良 いのちのことば社

・『悩む力 べてるの家の人びと』 斉藤道雄 みすず書房

・『降りていく生き方 「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』 横川和夫 太郎次郎社

・『安心して絶望できる人生』 向谷地生良浦河べてるの家 生活人新書

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