希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「ズル休み」をすることは楽しいという件

この社会では「休む」ことに対して寛容ではない。多少の体調不良では無理してでも学校や会社に行くことが当たり前のことになっている。ましてや「ズル休み」となれば、そんなことをしてしまいバレてしまったら極悪人の扱いを受けてしまう。一日や二日ズル休みをしてそれがバレたら人格攻撃に晒されることもある(僕の実体験である)。そんな怠け癖のある奴は社会では通用しないぞ、という説教を喰らうのである。

 

確かに会社の経営者や職場の管理者目線からすると、急に理由もなくサボられたら事業の運営に支障を来すことになるので、ズル休みなんかする人間は許されないことになる。まあ尤もな言いぐさではある。

しかしながら、一人や二人が急に抜けただけで事業運営に支障が来すのは、その職場のリスク・マネジメントがなっていないだけの話である。いつもギリギリの人員で仕事を回しているから、いざという時に対処できないのである。人件費をケチったことのツケが回ってきただけなのである。労働者の責任ではない。誰かが休むことありきで人員配置をしない会社が悪い、と働く者は開き直ればいいのである。

 

僕は学校や会社をとことんサボれと煽りたいわけではない。

あまりサボると内申書にも人事考課にも響くし、不利益を被るリスクがある。

けれども、一方で休むことを罪悪視する風潮には抗いたい。

多少の迷惑をかけても、気の乗らない時にはズル休みができて、そのことを殊更に責めたてない程度の「ゆるさ」がなければ息苦しい社会となる。

 

僕が「ズル休み」をすることの快楽を覚えたのは高校生の時だった。僕が通っていた高校は生活指導がいい加減というか殆どそれが無いという誠に素敵な高校だったのだ。

一日全てを休むということはあまりなかったけれども、面白くない科目の授業を中抜けするということはよくやっていた。僕が通っていた高校は城に隣接していていて、その城の周辺にはサボった学生がたむろするスペースが沢山あったのである。

この僕の出身高校のいい加減さというか自由さのおかげで、今のダメ人間である僕の基盤ができた、といっても過言ではない。

 

僕は働きだしてからも、時折ズル休みをしてガス抜きをしていた。働く前から薄々気付いていたことだけれども、僕はサラリーマンという雇われて働くという働き方がどうにも性に合っていなかったのだ。フリーで働くための経験もスキルもない。ならば、時々ズル休みをして息抜きをし、自分の精神のバランスを保つしかなかったのである。自己正当化ではあるれけども。

 

ズル休みにはいくつかの効用があると僕は思う(これも自己正当化だけど)。

ズル休みをすることによってリフレッシュできるとともに、同僚が働いているのに自分だけズルして休んでいる「疚しさ」も生じる。それらによってちょっとだけ明日以降の労働意欲が湧いてくる。

また、自分が休むことによって職場が少しでもバタバタすれば自身の存在意義みたいなものがあるのではという思いを抱くことができる。 

一方で、自分ひとりがいなくても職場は回るということも確認できる。過度のプレッシャーを感じなくて済むのである。

仕事なんかに全精力を注ぎこまなくてもいいという考え方ができる、と同時に自分も少しは役に立っているという思いを抱くことができる。

これらを総合して、仕事なんか人生のほんの一部に過ぎない、ということに思い至るのである。

 

何がしかの「疚しさ」を乗り越えて、ズル休みをすることが楽しくなれば、人生の達人に一歩近づくことになる、と僕は勝手に思っている。

ダメ人間の戯言だと思われても、でもある。

 

 

 

人手不足の会社は自業自得である、という件

人手不足に陥って事業の継続に支障をきたしている会社が多いという報道が散見される。

アベノミクスを賞賛する人たちは好景気の証だと吹聴している。実質賃金が上昇していない事実をどう見ているのだろうか。

労働力人口の減少による不可避な現象だとも言われている。こんなことは人口動態を見れば自明のことで、「何を今さら」という感はぬぐえない。

 

人手不足に至ったのはそうなってしまった会社の自業自得である。

労働条件の切り下げを続け、非正規雇用社員ばかりを増やし、人件費をコストとしかみなさない、そのような搾取の度合いを強め目先の利益ばかりを追い求めた会社に下った天罰だと言ったら言い過ぎだろうか。

 

僕は社会保険労務士として多くの会社の採用業務に関わった経験がある。

その当時から人手不足に悩む会社はあった。他方で一切人手不足で悩まない会社もあった。

その両者を分けた要因は何だったのか。一概に給料の多寡だとか、労働時間や休日の多少だけではなかった。業種や仕事の内容も関わってくる(人気不人気の業種・職種がある)が、同一業種でも人手不足に陥る場合もあればそうでない場合もあり、似たような職種でも同様である。

僕の皮膚感覚としては、「まともに」入職者を遇している会社は人手不足に陥るケースが少なかった。受け入れ態勢がそこそこ整っていて、入職者を戦力として(単なる人手ではない)扱う態度をきちんと示しているような会社は採用には苦戦しなかったのである。

これは理想論だという人もいるだろう。しかし、この程度のことが「理想論」とされること自体が異常なのである。

 

確かに産業構造の変化や労働力人口の減少といった「大きな」外的要因が人手不足を招いているという面はある。しかしながら、一会社の自助努力で何とかなるはずである。

実際に大多数の会社が人手不足に陥っているわけではない。

人手不足に陥っている会社あるいは業種はそうなることに内在的な要因、構造的要因、根本的な欠陥を抱えているのではないだろうか。このことに目を背けて外的要因ばかりに人手不足となる理由を求めるのは怠慢である。

また、これ以上待遇を良くすれば経営が立ち行かなるという話をよく聞くが、そのような会社は冷酷なようだけれども市場から退場しなければならない。社員に劣悪な待遇を押し付けて、そのことによってようやく存続しているような会社には未来がないのである。

 

人手不足の会社は「自己責任」でそれを解消する手立てを講じなければならない。

人手不足という事態に何の対策も取らず、外的要因に責任転嫁しているような会社が事業継続に支障を来すことは自業自得である。

弱者の救済は強者による「恩恵」であってはならないという件〈再掲〉

未だに社会福祉生活保護は政府による恩恵的施策だと思い込んでいる人が多くいる。

社会的弱者が権利を主張すると「弱者権利」を盾にした横暴だと言いたがる輩もいる。

人が人に値する生活を希求するのは普遍的な「権利」である。

 

初出 2017/6/15

 

先進国では社会福祉社会保障制度による救済を受けることは固有の権利だとされている。仮に自分の生活が困窮したとしたならば、生活保護を受給することは当然の権利の行使となる。

しかし、未だに生活保護を受給することは「国に厄介になる」ことであり「恥」であるという意識が残っていて、そのことが受給者にスティグマを刻印することになっている。この国の支配者層はこのような意識を悪用して、社会保障費の削減を常に目論んでいる。古来から「政(まつりごと)」とは民の平穏・安寧を保つこと、具体的には持たざる者たちに対して人としての尊厳を保つ程度の生活を保障することである。過度の競争を強いて「働かざる者、食うべからず」として飢餓の恐怖を煽るような政策を採る政府・権力者は為政者としての資質・資格に欠けているのである。

 

弱者に対する救済は単なる恩恵なのではない。恩恵であってはならない。

生活に困窮する人たちが増えてくると社会が弱体化し崩壊する。

弱者の救済は共同体(国家・社会)を存続させるために必要不可欠なものなのである。

この視点は重要である。

国家による社会保障制度(公助)だけでなく、時には共助も必要となり、最低限の自助努力も必要となる。

権利の行使による個人の生活保障というだけではなく、僕たちが依って立つ共同体を維持し発展させるためにも弱者を放置していてはダメなのである。

 

人は誰でもちょっとしたきっかけで弱者になってしまうという事実を忘れてはならない。失業して収入が断たれたり、病気になったり、老いることは誰にでも起こりうることである。これらのきっかけを「自己責任」として突き放すのは容易いことである。ただの責任放棄である。

また、弱者を「厄介者」扱いし、上から目線で施してやるという態度も共同体の機能を弱体化させる。共同体の成員間で階層が生まれ、分断化され、連帯感を喪失するからである。

 

かつては社会保障社会福祉は国家による恩恵だとされていた。かつての救貧制度は貧困者を厳しく選別し、救済に値する者とそうでない者を仕分けし、救済に値しないとされた人たちを放置していた。

国家による恩恵なのだから、救済を受けるに値する者だけを助ければ良しとされていたのだ。

強者の恩恵による弱者の救済はこのような「選別」の論理による人の値踏みが行われることに大きな問題点・欠陥がある。

 

現行の我が国の弱者に対する救済制度は表向きは生存権を保障することを旨としている。しかしながら、内には強者による恩恵、人を選別する論理が潜行している。ちょっとしたきっかけでこの内なる論理が噴出する危険性がある。繰り返し起こる生活保護バッシングはその最たるものである。

 

生存権社会権といった権利は先人たちが血と汗を流してようやく獲得したものである。権利ばかりを主張するな、という俗論に惑わされてはならない。国家の論理に迎合してもならない。

自分たちが依って立つ共同体の維持・強化のためにも弱者の救済をなおざりにしてはならないのである。同時にいつでも自分は弱者となり得る、「明日は我が身」という意識を持ち続けることも大切である。

強者による恩恵の論理に絡め取られないためにも。

 

 

会社に雇われて働くことが当然であるという「常識」を問い直すという件

僕たちはある「システム」や「ルール」に後れて参加していて、それを自明のものとしている。

「会社に雇われて働く」ということが初期設定になってしまっている社会において、そのことを疑いもせずに当然のものとして受け入れているのだ。

確かに現況は何らかの組織(会社や役所等)に雇われて働く人が勤労者の9割近くに達していて、雇用者はマジョリティを形成している。

現行の社会システムはこの雇用者をモデルケースとして形作られている。

 

人はなぜ働くのか、という根源的な問いには唯一の正解はない。「正しい」と目される答えが幾つも存在し、僕たちは常にそれらの中から自分に「しっくりとする」ものを選んでいるだけなのだ。

人はなぜ生きるのか、人はなぜ学ぶのか、といった根源的な問いと同質のものである。

 

仮に人は働くことが当然であるという前提の下で論を進めてみる。

 

働き方は人それぞれが自分の能力や希望や目的に応じて自由に選択し得るもののはずである。時間や場所に縛られることが苦痛と感じる人は雇われない働き方を選択し、そのことによってハンデを背負うことになってはならない。

多くの人が高校や大学や専門学校を卒業して新卒として会社に採用されて働き始めることが当たり前のものになっていて、このパイプラインシステムから外れた人たちはかなりの不利益を被ることになってしまう。この事実は強固な既成事実と化していて、疑問に感じる人はそれほど多くはない。逆に真っ当とされるレールから外れた人が「異端」であり「問題がある人」とであるとレッテル貼りをして時には人格攻撃をして、「システム」そのものに疑義を挟むようなことをすること自体が憚られる雰囲気に覆われている。

 

会社に雇われて働くという形がディフォルトになったのは戦後の経済成長期以降のことに過ぎない。「総サラリーマン化社会」は普遍的事項ではなく、ただ単に資本主義体制下に生まれたひとつの存在形態に過ぎないのである。近未来にはこの「総サラリーマン化社会」が解体することもありうる。現にその兆候が局地的に表れている。

 

今のこの社会が閉塞感に覆われている要因のひとつが「総サラリーマン化社会」にあるのではないか、と僕は思っている。生き方・働き方の多様性を阻害しているのである。見せかけの「安定」や物質的な豊かさに目をくらまされているのである。

 

「総サラリーマン化社会」にはメリットもある。特別な専門知識や技能がなくても、そこそこの学校を卒業してそれなりの会社に属することができれば生活は安定する。会社や役所に寄りかかっていれば大過なく人生を過ごすことができた。

しかし、人が皆組織に属し、組織の論理に絡み取られて働くことを良しとしているわけではない。会社に雇われることによって得られるかりそめの安定よりも別の「何か」を求める人たちもマイノリティながらも少なからず存在する。

 

従来は人々は地域共同体やその他の中間団体に属し、そこに居場所を確保してそれなりに楽しく生きていけたのだ。ところが、それらの共同体や中間団体が解体され、会社がその代替物となったのである。利益集団(利害に基づいて結合している団体)に過ぎない会社というものがそれ以上の役割を担い果たす、という事態は異常であったといえる。この異常さを異常と感じない鈍感さこそがこの社会の閉塞感を作り出しているのである。

 

会社に雇われて働くことが当然である、という「常識」が果たして正しいのか、という問いをしてみることが必要であると僕は常々思っている。

その問いかけに対する正解は出ないかもしれない。

正しい答えなんて出なくても良い。

問い続ける態度こそが大切なのである。

あるひとつの「常識」に盲従することほど恐ろしいものはない。

「ビジネス・マインド」は限定的にしか通用しないという件

最近はあまり耳にしなくなったが、一時期「民間活力」の導入が殊更に取りざたされていた。民間にできることはすべて民間企業でやるべきだという言説だ。構造改革のキモである。

民間活力とはつまりはどんな事業もビジネス・マインドをもってあたることである。

この言説は一見正しいもののように思える。

 

ビジネス・マインドという言葉は耳ざわりの良いものではあるが、要は「カネ儲け」至上主義の考え方である。

資本主義体制下の社会ではこの「カネ儲け至上主義」自体は悪ではない。

利益を得てそれを極大化するために会社組織(主として株式会社)を利用し、組織を増大化させることを最大の目的とする、ということが資本主義体制下では善なるものとなる。

 

現行の社会システムではビジネス・マインドそのものは必要不可欠なものである。ただし、市場経済システムになじむ競争がなされている領域での話である。コストを最小化して利益の極大化を図るという行為が是認されている領域での話である。

医療、福祉、教育、芸術、社会的共通資本等は元々ビジネス・マインドにはなじまない領域である。市場の論理を適用すれば、破綻をきたすか、あるいはサービスの不均衡が生じる領域である。

これらの領域ではビジネス・マインドは全く通用しないか、良くても一部のみしか通用しない。

 

構造改革民間活力導入市場原理主義的な路線によって医療や福祉、教育、社会的共通資本などの領域では当初の意図に反してサービスの質の低下を招いている。

医療・福祉の崩壊、教育に関連する問題の頻出する要因はすべてではないにしろビジネス・マインドへの盲信によるものである。

この世に存在する商品やサービスがすべてカネに換算されるという考え方自体が歪なものなのである。

 

例えば街中に市民の憩いのスペースがあったとする。そこでは子どもが野球やサッカーに興じたり、市民が散策したり休憩したりしている。このままでは「利益」が出ないと判断して、その場所を有料化し遊具を備えたり、あるいは会社に売却して一部の人にしか利用できない施設にして利益を出すようにする。土地の有効活用を図るのである。これがビジネス・マインドである(実際にあった話である)。

ある歴史のある大学でのエピソードも挙げておこう。その大学の校舎は世界的な建築家が設計した校舎を有しており、その校舎の美観は優れていて文化的価値は高い(しかし老朽化している)。ある時その大学は経営刷新のためにコンサルタント会社に委託したところ、美観と伝統を誇る校舎を資産価値ゼロと査定し、全面的な移転を提案したという。これこそまさしくビジネス・マインドの限界を露呈し、ビジネス・マインドがもたらす空虚さを露呈したものだといえる。

 

繰り返すが、ビジネス・マインドなるものは限定的な場でしか通用しないものなのである。なのに、あらゆる領域でビジネス・マインドを適用させようとし、そのこと自体が正しいと妄信することが今のこの世の中にまかり通っている。市場経済の中でしか通用しないことを、すべての領域で適用させようとしていることは愚かであるとしか言いようがない。

政治家や官僚をはじめとする公の仕事に従事する者たちが(公共心が必要なのに)ビジネス・マインドに侵されていることが、社会システムの不調を引き起こしている要因のひとつとなっている、と言えるのではないだろうか。

 

ビジネス・マインドへの盲信は、イデオロギーと化している。その弊害はこの社会の至るところに顕れている。

ビジネス・マインドは絶対的なものではなく、限定的にしか通用しないものだと僕たちは心しておく必要がある。

 

 

 

 

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