希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

遅刻に殊更厳しく、時間厳守ばかりが問われる社会は息苦しい、という件

社会人としての最低限のマナーとして時間厳守がある。時間にルーズな人はなかなか信用されないようになっている。

 

会社や役所に勤めるようになると、あるいはアルバイトやパートでも、始業時間までに必ず出勤しなければならない。酷い職場では始業時間の30分前や1時間前に出勤することが慣習になっていたりする。これは当然にサービス残業である。

どの職場においても遅刻は厳禁である。一部フレックスタイム制等の例外はあるが、遅刻は制裁の対象となる。特定の業種に比較的「ゆるい」職場があるにはあるが、一般的には始業時間の管理は厳しくなされている。

 

欠勤については遅刻以上に厳しい対応がなされる。急病等のやむを得ない理由による欠勤でも普通の感覚を持っている労働者ならば肩身の狭い思いをする。無断欠勤でもしようものならば、まるで罪人のような扱いをする。

会社組織の管理運営上、遅刻や欠勤を戒めることは理に適っている。遅刻や欠勤が野放しにされていたら企業活動の効率性が悪くなるのは自明のことである。統制が取れなくなるのは致命傷にもなりかねない。

 

ここまで述べてきたことはあくまで会社側経営側にとっての理屈である。労働者は働きたくないときでも所定労働日ならばイヤイヤでも仕事をしなければならない。例えば、ある程度の期間の生活費を賄えるほどの賃金を確保したから、残りは仕事を休むという選択はできない。尤もこれは正社員の話であり、パートや派遣等の非正規雇用ではできない相談ではない。

日雇い的な働き方では、ある程度のカネができれば仕事をしないという手もある。その日暮し的生き方だ。ただ、世間ではその日暮らしをする人たちはネガティヴな評価を受けやすい。怠け者だの意欲がないとかの言葉が投げかけられる。

 

戦前までの社会では、一部のホワイトカラーの「月給取り」を除いて、渡りの職人や工員は日給で働いていた。今で言う不安定雇用層が大企業の現場職や中小企業の社員の主力層であった。

当時は欠勤や遅刻など日常茶飯事だったのである。また当時の現場では「親方制」を採っていて親方が仕事を請け負う体制が主流であった。労働者を直接統制するのは親方であり、会社が直接に労務管理を行う体制になったのは戦時中である。

親方たちは請負業務を完遂するために色々な手段で労働者を働かせるように仕向けることになる。いちいち欠勤や遅刻を詰っていては、他の職場に移ってしまう。おそらくは欠勤者がいることを前提として、人員のやり繰りをしていたものと考えられる。皆勤手当や歩合給等の上乗せ分を支払って、労働者のやる気を引き出したりした。

 

労働基準法の規定では、遅刻や欠勤に対する制裁が明文化されている。遅刻の時間分や欠勤分の賃金控除以外に1日の賃金相当分の50%を上限(一賃金支払期の10%を上限)として制裁を行うことが認められている。この規定以上のペナルティを課せば労基法違反となる。

つまり、遅刻や欠勤は強い表現を用いれば「処罰」の対象となることが、法律上(労基法上)担保されたことになる。

また、遅刻や欠勤が度重なれば懲戒解雇をなす正当な事由ともなる。

 

労働者は遅刻する「権利」や欠勤する「権利」は認められていないことになる。

さらに言えば、「怠惰の権利」「怠ける権利」が否定されていることになる。辛うじて年次有給休暇の権利が認められている。

労働者にとって、遅刻や欠勤は「悪」であるとの価値観を植え付けられることになる。

現行の資本主義体制において、労働者は「勤勉」さを求められていて、極言すれば体制に従順であることを求められている。学校教育においても体制に従順な人たちを生み出していくことが求められている。

まあ、当たり前といえば当たり前の話である。

しかし、ひねくれ者の天邪鬼である僕からすればまことに面白くない。

たかだか遅刻や欠勤しただけで罪人扱いされるのは息苦しいしゆとりのない社会だと思ってしまう。

労働条件や労働環境の改善を要求する手段として、職場の労働者が一斉に遅刻するという企てもなかなか面白いし痛快だ。

 

たまの遅刻や欠勤にいちいち目くじらを立てることは、あまりにも狭量である。

休まずに遅れずに働き続けることが尊いという価値観に違和感を覚える僕は、単なる怠惰な人間でダメ人間なのである。

 

   

働きたくないと思うのはある意味まともであるという件〈再掲〉

僕は雇われて働くことを忌避している。

典型的な怠け者のダメ人間である。

このブログはそのような自分を正当化するために書いているのかもしれない。

 

初出 2016/10/4

 

僕はこのブログでたびたび働きたくないと公言している。「仕事」をすることは嫌いではないけれども、雇われて働くことがたまらなく苦痛なのである。

世間の常識や良識からすると「働きたくない」と口にすることは自殺行為である。働きたくないと思っていることがバレてしまうと即「使えない人間」「怠け者」といったラベリングがされ人に非ずと非難されることになる。

 

世のサラリーマンは本当に働きたくないとは考えていないのだろうか。例えば宝くじで数千万、数億円というまとまったカネが入っても働き続けるのだろうか。たとえカネがあったとしてもブラブラしていたら世間体が悪いので働く、といった感じになるのだろう。

労働至上主義的な考え方が根付いているこの社会では働くことに拒否反応を示す人たちを異端視し時には排斥する。

 

僕のようなダメ人間でも働くことによって得られるものがあることは重々承知している。自分で稼いだカネで生計を維持することができると一人前になったなという感覚になる。働くことによって自分の居場所を確保できるという側面もある。

しかしながらである。

労働者として働くことによって失われるものがあまりにも多すぎる、と僕は思ってしまう。

わずかばかりの賃金と引き換えに自分の時間と精神、肉体を会社に差し出さなければならない。会社に生殺与奪を握られて会社に対して隷属的な立場に陥ってしまう。有体にいえば、自分の「自由」を奪われ、自分の「自由」を差し出すことによってようやく自分の立ち位置を確保できる。「安定」という幻想に縋りつきながら。

 

僕は自分のナリワイをきちんと持って仕事をしている人たちに憧れている。たとえ収入が不安定であろうと、仕事がいつ無くなるか分からない不安定さがあろうとも、雇われて働くよりは人間らしい生活であると思う。

かつてそう遠くない昔では、人々は自分のナリワイを持ち自律的に働いていた。会社や工場や役所等で働くことが多数派になったのは最近のことである。会社等に雇われて働くことが自明のものになった歴史はごく浅いものである。

僕は昔に帰れと言いたいわけではない。僕のように雇われて働くことを忌避している人間が生き延びることができる隙間みたいなものがあればいいと思っているだけだ。

 

僕は世間から後ろ指をさされることを承知で言いたい。

働きたくない、と思うのはまともな神経を持っているからだと。

僕は確かにダメ人間であるし世間から少しズレた感覚を持っている。しかし、それがゆえに異端視され排斥されるいわれはない。

僕は自分が「まとも」であると信じている。 

中間管理職なんて本当に必要なの、という件

僕の職業生活の大半はフリーランス非正規雇用である。

正社員のサラリーマンとして働いた期間は長くはない。

そのサラリーマン時代にはロクな上司に当たらなかった。信頼に足ると感じた上司・管理職は2,3人程度で他は仕事以外では絶対に付き合いたくないと思うような人たちであった。

 

僕が公務員時代の最後の方で関わった直属の上司は最悪であった。

以前のブログにもちょっとだけ書いたけれども、この最悪な上司はまさに「昭和的な」労働観の持ち主だった。この上司は僕が前任者から引き継いだ仕事の効率化を図って残業を大幅に減らしたことに怒りを露わにし、様々な嫌がらせを僕にした。勤務時間内に決済印を押さない、退勤時間間際にどうでもいいような仕事を今日中にやれと振ってくる、などなど僕に残業させようとあの手この手を使ってきた。果ては「そんな仕事のやり方では出世できないぞ」と説教までする始末。この最悪な上司がいたおかげで僕は公務員に見切りをつけることができたので、今となっては感謝している。

 

僕の全くな個人的な経験だけを基にして僕の考えを表明するのはどうだかなぁとは思うけれども、やはり言いたいことがあるので言っておきたい。

「そんなにたくさんの中間管理職なんて不要だよ」と。

僕が正社員として勤めたのは役所(規模が大きい)と中小企業という両極端な組織であって、特殊なケースなのかもしれない。

僕が勤めた中小企業ではワンマン経営のところが多く、自分の意見がダイレクトに経営者に届いて、それはそれでよい面があった。しかし、経営者の意向がすべてだということでもあり、弊害もある。

 

やたらと中間管理職の多い会社は組織の維持にはうってつけかもしれないが、経営環境や社会の変化に対応できないし、さらなる発展がしにくいのではないか、と思う。全くの僕の独断と偏見ではあるけれども。

巷に流布する経営論等では分厚いミドル層こそが日本的経営が成功した要因であると述べられていた。一旦はこの論は衰退し、フラットな組織でないと会社は発展しないとなった。ところが、また中間管理職のポストを再び増やす傾向にあるという。

 

組織をフラット化し役職を減らすと、個々の管理職の仕事が増えて管理しきれないことになった、ということで再びミドル層の見直しが行われている。

これはおかしい。

部下に適切に権限や裁量を委譲できてないだけのことである。いや、部下に裁量を与えることで管理職の権限が奪われると思い込み、それができない無能な管理職が多いだけなのである。

また、中間管理職に就くことによって得られた好待遇を手放したくない、つまり既得権を手放したくないと考えている中間管理職たちが、屁理屈を並べ立てて自分の地位・既得権に固執しているのである。

また、中間管理職の数が多くなると「口出し」をする人が多くなり組織が硬直化する。下手をすれば「中間管理職たちを食わす」ために会社組織が存続することにもなりかねない。本来の意味でのマネジメントができる資質や経験を有する管理職だけがいれば十分なのである。

 

僕のような正社員としてのサラリーマン経験が少ない者が中間管理職なんて必要最低限でよい、殆どの中間管理職なんて不要だ、と言っても説得力はないのかもしれない。

しかしながら、サラリーマン根性に毒されていない、組織の論理に絡め取られていない(と勝手に自負しているだけだけれども)奴の言葉にも耳を傾けて欲しい。

 

「人権」はイデオロギーのひとつに過ぎないけれどもやっぱり大切なものという件

「人権」という概念はひとつのイデオロギーに過ぎない。普遍的な絶対的な真理ではない。人権思想を金科玉条とすると、「人権教」という宗教となり、人々はその教義に盲従するようになる。これはとても危険なことである。

 

僕は何も人権思想を否定しているわけではない。むしろ逆でとても大切な考え方だと思っている。ただ特定のイデオロギーを盲信することは危険だし愚かなことだと言いたいだけだ。

 

この国で基本的人権の尊重が広く受け入れられるようになったのは日本国憲法の制定以降である。戦前の明治憲法では「臣民の権利」という留保付きの人権が認められていたに過ぎない。国情が変化すると国民の権利は制限されたのである。人権思想が普遍的な真理のようなものになったのは戦後70年ほどの浅い歴史しかない。

 

僕は人権イデオロギーを「使い勝手の良い」概念だと思っている。一見普遍的な真理のような仮面をかぶったイデオロギーは様々な場面でその力を発揮する。

社会保障、特に生活困窮者の支援について考えてみる。

生活が困窮している人たちを助けるべきというコンセンサスは一応存在する。ただし、最底辺の労働者以下の処遇でも構わないという「劣等処遇」の原則を貫徹せよと考えている人たちは未だに多い。働かない人たちを怠け者だと断罪し、それらの人たちは野垂れ死にしても構わないという労働至上主義的なイデオロギーが未だに幅を利かせている。その労働至上主義的イデオロギーに対して「人権」という「強い」イデオロギーが社会政策を実施するうえでは必要となってくる。この強い人権イデオロギーによって人は誰でも人間に値する健康で文化的な生活を営むべきだという考えが導かれ、またその考えが正当化される。

この世知辛い世の中で何とか社会保障が実行され、生活困窮者が助けられているのは、生存権という強い人権イデオロギーに基づく権利が周知されているからである。

 

時折噴出する生活保護バッシングは生存権という強い人権イデオロギーに違和感を持ち、庶民の肌感覚としてある「働かざる者。食うべからず」という労働至上主義イデオロギーが顔を覗かせて、ふたつのイデオロギーがせめぎ合いを起こすことに端を発している面がある。

 

人権を錦の御旗に掲げて活動している市民運動に僕が違和感を持つのは庶民のリアリズムと乖離しているからだと思う。

また、これまで述べてきたように人権思想が単なるイデオロギーに過ぎないのに、「人権教」の信者となり何事も人権ありきという思考様式、行動様式を採る人たちに不信感があるからである。

社会運動は今、そこにある問題を解決するために行うものである。生きづらさを失くし、「生存」の危機を失くすためのものである。人権イデオロギーを広めるためのものでもなく、「人権教」の布教のためのものでもない。

 

ここまでつらつらと人権イデオロギーの負の面を述べてきたが、何だかんだ言って「人権」思想は大切なものであることには変わりはない。

人権イデオロギーを盲信するのではなく、ただ「使い勝手が良い」イデオロギーであると割り切ることも必要である。

この世に真の正義、普遍的な真理などないのだから。

真っ当な生き方をしなくても、楽しく生きていけるという件

世間で言うところの「真っ当な生き方」をしていれば大過なく人生を送ることができる。

世間との軋轢も避けることが出来るし、社会的信用もそこそこついてくる。

ある組織に帰属して「安定」した地位と待遇を受けていれば安泰だとかつては考えられていた。この組織は大きければ大きいほど良いとも思われてきた。

組織の一員としての自分、というアイデンティティを持つことが推奨されていた。自分という「個」を強く押し出すと、わがままだの扱い難いだのネガティヴな評価を受けるケースが多く見られた。

 

この社会は同調圧力が強く個人に圧し掛かる。

皆と同じがよい、横並びが普通でまともだと思われてきた社会である。

「意識の高い人」(良い意味で)は自分が抑圧され、能力が発揮できないと考え、ついには組織を飛び出すことになる。

僕のように意識の低い人間は違った意味で組織にい続けることが息苦しくなり、やはり組織から零れ落ちることになる。

いずれにせよ、両者とも「真っ当な」社会のレールから外れた生き方をせざるを得なくなる。

 

「真っ当」とされる生き方から外れても、そのことによって不幸になるわけではない。ちょっとだけリスクが高い生き方になるだけである。

起業したり、フリーランスになって成功すれば、組織人のときには考えられないような報酬や名声を得ることができる。一方で失敗すれば多大な負債を負う可能性もある。また、「安定」からは程遠い状態をずっと続けなければならない場合もある。

 

組織に留まって相対的に安定した生活を続けることが「真っ当な生き方」だと世間的に是認されている社会では、それを拒み違った生き方を選択することはいわば「逆張り」であるといえる。

当然にリスクは大きいし、不安定なものになりがちである。

成功する保証はどこにもない。

僕は公務員を辞めてフリーランスとして生きることを決めたときには、最悪の場合はホームレスになることを覚悟していた。まあ、実際はその当時は両親が健在でそこそこの生活レベルにあったので、何もかもを失った時には両親の許にやっかいになっていただろうけど。

 

僕はずっと「逆張り」の生き方を続けているわけだけど、意外と居心地が良いと感じている。確かにビンボー生活がずっと続いているけれど、悲壮感とは無縁である。少しばかりの「自由」があるのが何より嬉しい。将来はなるようにしかならないと、開き直っている。社会的な地位や信用は無きに等しいが、そんなものは屁でもない。

僕は「逆張り」の生き方を勧めているわけではない。真っ当に生きることが出来る人は、真っ当に生きた方が良いに決まっている。

真っ当に生きることは「王道」であると僕は思っている。

 

僕もかつては「真っ当に」生きようとしていた。自分にはそれが出来て当たり前だと思っていた。

けれども、どうも怪しいぞ、僕はダメ人間らしいぞ、と悟ったときに腹を決めて「逆張り」人生を進むことを決めたのだ。いや、違う、そうならざるを得なかったという方が正しい。

 

逆張り」人生もなかなかに面白い。  

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