今日からブログを再開します。
諸々の事情により、2019年の末から一旦中断していました。
その間に大病をしたり、コロナ騒動があったりと色々なことが私の身に起こりました。
この度、心身共に「奇跡的な」恢復を果たしたことを言祝ぐためにブログを再開することにしました。
以前のエントリーはしばらくの間はそのまま残しつつ、全く様変わりした内容や表現方法をもって書いていきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
今日からブログを再開します。
諸々の事情により、2019年の末から一旦中断していました。
その間に大病をしたり、コロナ騒動があったりと色々なことが私の身に起こりました。
この度、心身共に「奇跡的な」恢復を果たしたことを言祝ぐためにブログを再開することにしました。
以前のエントリーはしばらくの間はそのまま残しつつ、全く様変わりした内容や表現方法をもって書いていきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
僕は元々プライドが高い人間だった。
そのせいで人間関係において軋轢を生んだりしてきた苦い思い出がある。
若い頃は「俺はこんな程度の人間じゃない」「俺はもっと高みにいけるはずだ」との思いがあり、それが僕を縛り付けていた。
人が生きていくうえで矜持やプライドは絶対に必要である。
しかし、「余計なプライド」、いいかえれば見栄や虚栄心を伴ったプライドは不要なものだ。
余計なプライドを持つことにより、他人を見下したりする。
どんな仕事をしているかやどれほどの年収を得ているかによって相手を値踏みし、勝手に格付けをしたりする。こんなに愚かな行為はない。
また、相手から高く値踏みされようとして、世間で高いとされる属性を身に着けようとあくせくするのである。こんな不毛なことはない。
僕が新卒就活をしていたとき、自分が何をしたいか、どんなことを成し遂げたいかということを考えず、いかに世間から高く評価されるかのみを重視していたと今となっては思う。それは僕のしょうもないプライドを満たすためのものだった。
その後、公務員を辞めて、次の仕事を選択する際も、僕のつまらない虚栄心を満たせるような職種をピックアップして、それらの中から自分ができそうなものを選ぶというプロセスを踏んだものだった。
そこにはいかに楽しく面白く人生をやりすごすかという視点が全く欠けていた。
今の僕には100%とまでは言いきれないけれども、余計なプライドはない。
真っ当な生き方のレールから零れ落ち、ダメ人間と化している僕なのでプライドもへったくれもないものではあるけれども。
世間からの評価や格付けが低くなれば、色々と不都合なこともある。クレジットカードの審査に通らないとか賃貸住宅に入居しづらいとかそんなところだ。
同窓会で肩身の狭い思いもしたりするかもしれない(もっとも僕は同窓会には出ないが)。
余計なプライドをかなぐり捨てると、目線が下がり弱きものに対して優しくなれる。
この社会のありようが違って見えてくる。あるいはこの社会が抱えているひずみがはっきりと見えてくる。
そしてこのろくでもない社会に対して心の奥底では抗いつつ表面上はすいすいと渡り歩くという生き方を抵抗なく選ぶことができる。
人としての矜持は持ちつつ、余計なプライドは持たないという生き方を僕は続けていきたい。
面白おかしく残りの人生をやりすごすために。
ダメ人間の僕が採りうる有効な生存戦略だと確信している。
多くの人たちは幼少時から「安定した」仕事に就いて「安定した」生活を営むことが絶対的な善だと刷り込まれてきている。
「安定神話」の呪縛に囚われているのである。
そのための前提として安定は善で不安定なことは悪だとの思い込みがある。
不安定という用語を使用するとき、大抵はネガティブな意味合いを含んでいる。
例えば非正規雇用の問題点としては不安定な雇用状態が取りざたされる。
確かにそうではある。
しかし、報酬単価が高ければ、不安定雇用はそう問題とはならない。他の先進諸国では非正規雇用の労働者の方が単価が高いと言われている。
場合によっては「不安定」なことは問題とはならないのである。
僕は安定なんて幻想に過ぎないと思っている。
この世の中のすべてのものの成り立ち方の根源的な在り方は「不安定」なものだととらえている。
「万物は流転する」のである。
今の世の中で生きていると、安定していても不安定なままであっても、漠然と抱く不安感のようなものは大差ないような気がする。
この不安感がなかなか払拭されないがゆえに、心の平穏を求めてより安定を求めている、といった方が正しいのかもしれない。
仮初の安定を得ることによって仮初の安心感を得ているのである。
新卒者が自分の仕事の選択基準として「安定」を挙げ、大企業や公務員を志望する者が多いのも首肯できる。
安定をディフォルトとするか不安定をディフォルトとするか、いずれの方がより生存戦略として優れているか。一概には言えないかもしれないけれども、僕は不安定をディフォルトとした方がより適切な生存戦略を採ることができると思う。
人はその人生の中で幾度も予期せぬことに遭遇する。ちょっとしたきっかけで進む道が大きく分かれることがある。順風満帆にずっと進むなんてことはあり得ない。
自分の足元は実は古びた吊り橋にあってちょっとしたはずみで踏み外してしまう代物だと観念しておいた方が、リカバリーしやすくなる。
不安定なことは悪いことでもなく、改善すべきことでもない。
それが常態なのである。
そう捉えておかないと、有効な生存戦略は採れなくなる。
安定が絶対的な善であり、安定を求めることが正しいとされる価値基準に満たされた社会はどこか息苦しいし、何より面白くない。
先のことは分からない、何が起こるか分からない、という状況が続き、何かが起こるたびに自分が持つものを総動員してやり過ごす、という方が楽しくてワクワクする。
生きているという実感が湧いてくる。
これらの感覚は偏っているものだろうか。正しくないものなのだろうか。
あるいはダメ人間であり、真っ当な生き方を放棄した僕ならではの開き直り、居直りなのだろうか。
僕はやはり安定は望まない。
そのための覚悟はできている(つもりである。僕はそんなに強くない)。
不安定さの中でひらりひらりとこの世の中を渡り歩くために、今悪知恵を働かせているところである。