僕は昔から気合とか根性という言葉が嫌いである。
このブログでも何度も言及しているように精神主義的メンタリティというものがどうにも肌に合わないのだ。
ある課題があって、それを気合や根性で乗り越えろというのは即思考停止につながるものである。まともな知性がある人の行う所業ではない。
行き過ぎた精神主義は知性を蔑ろにする。あるいは知性を敵視することにもなる。
気合や根性を重視する態度は何も「ヤンキー」系に限るものではない。
この国では古来から精神主義的メンタリティにどっぷりと浸かっているのである。
スポーツの世界においては気合主義・根性主義が未だに幅を利かせている。
長時間労働を強いて、低賃金で働かせて、それでいて生産性が低いという事実はその証左である。
気合や根性が好きな輩は、空疎なスローガンを好む。
戦前の「欲しがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵」。
昨今の「一億総活躍社会」「女性が輝ける社会」
何も変わってはいない、昔も今も。
僕が嫌いな気合主義の具体例は「素手でトイレ掃除」運動である。
今は便利で合理的な掃除器具があるのに、わざわざ素手で行う意味が分からない。
大の大人が勝手にするのなら放置しておいてもいい。しかし、それを児童に強制するのはいかがなものか。単なる児童虐待である。素手でトイレ掃除を行うことによって「心が磨かれる」といった妄言をトイレ掃除を強制する側は吐く。これにいかがわしさを感じるのは僕だけなのだろうか。
僕が社労士事務所を営んでいるとき、有志と勉強会を開いていた。ある時、講師を招いてちょっとした講演会をしてみようという話になった。講演のテーマを何にするかという話し合いをしていて、「トイレ掃除で企業業績が上がる」という著書を書いているある人を講師に呼ぼうということになった。僕は反対したのだけれども、少数派だった。
講演会は盛況のうちに終わった。件の講師(とその仲間)はトイレ掃除を出張して行っていてしかも素手で行うことに意味があると繰り返し主張していた。
トイレ掃除と企業業績に相関関係はない。ただトイレ掃除と「心のありよう」なら何らかの関係があるかもしれない。そういえば、一昔前に「トイレの神様」という歌が流行っていた。
この経験は、僕にこの国の人たちの多くは精神主義的なエピソードが大好きなんだということを教えてくれた。
僕は気合や根性が全く不要なものだとは思っていない。時として必要な場面に出くわすことがある。
しかし、万事を気合で片づけるという態度に同調することはできない。
精神主義は合理的な思考や問題を深く掘り下げて考えるという営為を排除することもある。
ぼくはそれを全く好まない。
まともな人が採るべき態度とも思わない。
気合や根性論が好きな人たちが多数派であっても、僕は少数派を貫いていく。