僕たちは幼い頃は全能感に包まれている。世界の中心に自分がいて、自分以外の他者はすべて自分に注意を注いでいると感じている。
年齢を重ね、自我らしきものが芽生えると同時に、実は自分という人間は取るに足らないどこにでもいるありふれた存在なのではないかと苦悩するようになる。
ほとんどの人たちが自分は「替えの利く」存在に過ぎないと認識するようになる。それが大人になるということである。
実際に大多数の人たちは替えの利く存在である。これは動かしようのない事実である。
一方でそのことを認めたくない気持ちもある。
自分は「かけがえのない存在」でありたいと強く願う気持ちが心のどこかに巣食うのだ。
その溝を埋めるために、学業や仕事や恋愛に没入するのである。
恋愛に夢中になっているとき、自分は相手にとってあるいは相手は自分にとって無二の存在だと思い込んでいる。その思い込みが恋愛を推進する活力となるのである。
別れが訪れて、一時は悲嘆に暮れるがまた別の誰かを好きになり、同じような幻想の世界に入っていく。無二の存在だと思っていた相手が実は取り換え可能な存在に過ぎないことに気付いても、また別の誰かに対しては無二の存在であれ、となる。
傍から見れば誠に愚かしいことであるが、誰もこの愚かさを笑うことはできない。
会社に勤めるサラリーマンにしろ、フリーランスにしろ、あるいは経営者にしろ大半の人たちは替えの利く存在である。大方の人たちはそのことに薄々気付いている。
ある人はかけがえのない存在に成り上がろうとするし、ある人は自分がつかみ取った椅子にしがみつこうとするし、またある人は我が身を恨みつつ従容と受け入れる。
僕は若い頃は、自分という人間が取り替えの利く存在であることに忸怩たる思いを抱いていた。かと言って、かけがえのない存在なれるほどの資質も度量もないことを思い知らされていた。このことを思うたびになんて人生は空虚なものなんだと感じていた。
今の僕は自分がかけがえのない人ではなくてもハッピーに生きていけるとの思いに至っている。ただ、自分の存在を全く認識されないのは悲しい。
だから、「あの人がいなければちょっとだけ困る」という程度のポジションを得られればラッキーだと思うようにしている。多少の存在感はあるといった程度のものである。
このポジションに落ち着けば気が楽であり、かつ自身の有用感を得られるし自己肯定感を損なうこともない。かけがえのない存在には程遠いけれども、自分はここに居てもいいんだという安心感がある。
この安心感さえ得られれば生きていくには十分であると僕は思う。
「あの人がいなければちょっとだけ困る」といった程度のポジションは誰でも血の滲むような努力をしなくても多少の努力で得られるものである。
「無理をしない」「我慢をしない」「ほどほどに」をモットーとしている僕にすれば、それが有効な生存戦略なのである。