僕はビンボー生活を長く続けている。
カネのありがたみは人一倍分かっているつもりだ。
でも、目先のカネのために魂を売り渡すような真似だけはしたくない、と常々思っている。
貨幣・通貨とは効率よく商品やサービスを手にするために作られた交換手段のひとつに過ぎない。資本主義体制下ではカネに対するフェティシズムのような現象が生じる。
交換手段としてのカネが、カネ儲けのみを目的とすることになってしまうのである。カネを稼ぎ蓄えることのみに注力する事態になるわけである。
一昔前まではカネに執着する人間のことを「守銭奴」としてある種の蔑みの目をもって見ていた。「カネに汚い人間」は信用できないともされていた。
近ごろはカネを持つ者が正義だと言わんばかりである。カネを稼ぐ才能が人よりちょっとだけ優れているような輩を持ち上げたりもする。資本主義のイデオロギーが行き着くところだから、仕方がないと言えばそうである。
僕はカネ儲けが悪い、カネを貯めることが悪いと言いたいわけではない。
なんだかんだ言っても、カネがないことで起こる問題も多いし、カネで大抵の物事は解決できる。カネをある程度持っていて懐に余裕があると、精神的にも余裕が出ることは多々あることだ。
ただ、カネを稼ぐ能力や資産を多く有していることだけを人を判断する度量衡にするのはいかがなものか、という疑問をもっているだけのことだ。
僕の両親はカネにきれいな人だった。僕はその両親の影響を受けている。
そのおかげで、今までにかなりの金銭的な損をしてきた。
カネだけを目的に仕事をしない、金持ちかどうかで相手の判断をしない、目先の利益に左右されないといったことを続けてきて、結果今のビンボー生活に至ったわけである。
強がりかもしれないけれども、僕はカネに汚い人間になるよりは少しでもカネにきれいになることで今の状況になったことに全く後悔はしていない。
カネ儲けの才能に恵まれていないことについても、これでいいと諦念している。
カネはとても大切なものだけれども、カネがすべてではない、と僕はずっと思っていきたい。青臭い考え方だとは分かっている。現実を見ていないとの批判を受けることも承知している。
カネに執着しない、というのが僕のアイデンティティだと言い切れるだけの覚悟は未だ持てないけれども、いつかそう言い切れるようになりたい。
カネの持つ魔力に憑りつかれないように、自分を律していきたい。
こんなことを言っているようでは、いつまでも今のビンボー生活からは抜けられないな。まあ、これも仕方がないか。