新卒にしろ既卒の転職にしろ、未だに履歴書の空白期間、すなわち会社勤めをしていない期間(新卒の場合は卒業後のブランク)があればそれが問題視される。
本当にバカバカしいことだと思う。
僕は社労士事務所を畳もうとしたときに転職活動をしたことがある。その際には人材紹介会社の担当者や面接をした採用担当者から、自営期間と非常勤の講師をしていた期間が長すぎるとして、色々と難癖をつけられたことがある。
つまり僕の専門知識を活かした仕事をした期間、社労士事務所の経営と専門学校の講師をしていたキャリアは全く無視されたのだ。
会社側としては使いづらい奴だとみなされるのは致し方がない。リスクを取ってフリーランスとして仕事をしていたことが、雇われで働くことより下に見られたことに何だかモヤモヤとした感じがしたのである。
どうして世間では、キャリアの空白を忌み嫌うのか、僕には理解できない。
ストレートに高校や大学を卒業することや、働きだしてからもブランクがないことが重視される。「回り道」とか「寄り道」の余地を許さない不寛容な社会である。
人生のうちの数年くらい会社勤め以外の働き方や、仕事以外のことをしていてもその人の価値を毀損することにはならないはずである。
会社に雇われて働く以外の形で仕事をしていた人たちは、ずっと会社という組織に囲われて、組織の論理に絡み取られた人よりは活用の余地が大いに残されているのだと、僕は思う。
今は「総サラリーマン化社会」であると僕はとらえている。それは「ムラ社会」の変形版であり亜種である。同調圧力が強い社会でもある。そこでは「みんな」と違う行動を採る人たちは排除される。サラリーマン的価値観が多数派を形成し、その価値観から外れる人たちは異端者として排斥されるのである。
決められたレールに沿って、そのレールの上を外れることなく進むことが正しいとされる考え方が充満した社会は生きづらさを感じる人たちを多く生み出すことになる。
履歴書のブランクを認めないということは、レールから外れた人たちは役立たずであり、使い勝手のない人だと宣言していることになる。こんな風潮が続けばその社会は衰弱し崩壊するだろう。イレギュラーな生き方を認めない社会は均質化し、その共同体は弱体化する。異質な人たちが適度に混ざり合って共生できる共同体が健全なそれである。
これからは少々のブランクなど気に留めずに、その人の潜在能力をいかに活かすかを試みるような会社組織だけが生き延びることになる、と僕は勝手に思っている。異質なものをその組織に取り込めないような会社組織は遅かれ早かれ市場から退場することになる。僕の勝手な思い込みであって、そうならないかもしれないけれども。
履歴書のブランクがない人たちが真っ当な社会人である、という認識が広く世間を覆っている間はこの社会は衰退し続けるだろう。そんな社会では様々なことにチャレンジをする人の足を引っ張るばかりになる。
そんな社会を僕は望まない。
変わり種とみなされる人たちが生き生きと活躍する社会を僕は夢想する。