多忙を極めていることを殊更に強調して自慢している人たちが僕は苦手である。
ヒマを持て余していて、そのことを隠さずにいてヒマな時間を楽しんでいる人たちが好きで共感する。
そんな僕は筋金入りの「ビンボー、ヒマあり」人間である。
初出 2018/3/8
このブログで何度も言及しているように、僕はヒマ人である。
なかなかに筋金入りのヒマ人と言ってもいい。
本当はボーっとして過ごしたいのだけれども、僕の性分なのかそれができないでいる。
仕事をしている時間(真っ当な人から見れば微々たる時間だが)以外は本を読んだり、ブログを書いたりブログのネタを考えたり、ラジオを聴いたり、動画を観たり、ネットサーフィンをしたり、散歩をしたりしているうちに一日は過ぎていく。僕は「勤勉な」ヒマ人なのである。
朝目覚めて、その日の予定が入っていないととてもハッピーな気分になる。この感覚がヒマ人のヒマ人たるゆえんであり、ヒマ人の特権である。
かと言ってボーっとするわけでもなく、上記のことをルーティンとしてやっていく。
僕としてはルーティンをこなしているわけだから無為な時間を過ごしているという感覚はないのだけれども、真っ当な社会人から見ればやはり無駄に時間を過ごしていることになるのだろう。
僕は昔からスケジュール帳を真っ黒にするほど予定を次々に入れていく人のことが理解できなかった。僕が多忙の時も(僕にもそんな時があったのだ)、いかにしてスケジュールの隙間時間を作るかに腐心していた。
僕の周囲の多くの人たちは「ヒマ」であることを嫌いあるいはヒマであることを恐れていた。そういった人たちはヒマであることは自分の存在価値を毀損するものだと思っていたのだろう。僕にはこの感覚が分からなかったし、今でも全く分からない。
確かにこのご時世、ヒマ人だと公言してしまったら「無能」「使えない奴」とのレッテルを貼られるおそれが多々ある。真っ当な社会人は忙しいことがデフォルトとなっている。本当は忙しくはないのに忙しいふりをしなければならない。そうしないと他者からの評価がガクンと落ちてしまうからだ。
巷間でよく言われていることだが、「忙しい」とは心を亡くすことである。元来は決してポジティブな言葉ではない。ところが今では反転してしまっていている。忙しい人、あるいは忙しいと見られる人は高い評価を受けることになる。一方で「ヒマ」であることは悪とみなされる。
本当に皆が皆忙しいことを良しとしているのだろうか。本心から「ヒマ」であることを嫌っているのだろうか。
忙しいことに快感を覚える人はそれはそれでいい(僕としてはかなり危険な状態だとは思うけれども)。
でも、多くの人たちは心ならずも忙しい状態にその身を「置かされている」のではないだろうか。あるいは忙しいことが善だと思い込んでいるのではないだろうか。
僕には分からない。
おそらく多くの人たちは「ヒマ」になったら自分の生活が脅かされるという強迫観念に囚われている。ヒマ=仕事が出来ない、ヒマ=生活レベルが低位にある等の思い込みにその心が侵されている。
多忙を極めてそこそこの生活レベルを維持するか、ヒマでビンボー生活に甘んじるか(こんなに単純な二項対立ではないが)、どちらを選ぶかは人それぞれの価値観による。どちらが正しいと言い切れるものではない。
僕は今はビンボーヒマあり状態であり、お気楽な生活を送っている。
今の状況が僕の選んだ道が100%正しいと言い切れないのが辛いところではある。ビンボー生活もなかなかにしんどいことが色々とある。しかし、ヒマ人であることはなかなかに心地よい。
僕は自分の生き方が正しいとは全く思わない。
けれども、多忙な人たちに今の忙しい生活に疲れたならば、ちょっとだけ「こちらの世界」を覗いてみてもいいんじゃないか、とそっと囁きたい。もしかすると、ちょっとだけ違った世界が広がっているかもしれないよ、という悪魔の囁きを。