僕は40代の初めのころまでは、生産性の高い人間になろうと悪戦苦闘していた。
仕事ができる人間が「レベルの高い」人間であって、そうでない人たちは使えない無用の存在だと思い込んでいたのだ。
負け犬にならないように、無理に無理を重ね続け、ついにはキレてしまった。
人を「生産性」というモノサシで測るようになったのは資本主義社会となってからである。明らかに非人道的な度量衡である。
人を労働生産性という資本主義体制を存続させるためだけの度量衡で選別するという行為はおかしいと言わざるを得ない。しかし、このどこか狂った選別がさも当たり前のように行われている。
そもそも、人を選別するという行為自体がおかしいのだ。
明らかにおかしなことも、世の中の大多数の人たちに受け入れられるとそれは常識的なものとなる。人を生産性で選別することもそれにあたる。
経営者が労働者からの搾取の度合いを高めるために労働生産性を高めることに腐心し、労働者は生産性を高めれば高めるほど搾取される量が増大する図式となっている。
僕は社労士事務所を畳んでから、生産性を上げて高い報酬を得て社会的地位を上げるような生き方をあきらめた。競争から降りることにしたのだ。負け犬となってもいい、自分が生きやすいように生きようと心に決めたのである。
近い将来には、「半農半X」的なライフスタイルを採用したいと密かに思っている。何か自分に合ったナリワイを得て、自分の食い扶持くらいは自給する生活。困ったことに未だに自分に合ったナリワイを見つけられずにいる。
まあ、焦ることはない。きっと自分にマッチしたナリワイに出会えると楽観的に考えている。多くの報酬を望まなければ可能な話だ。最低限の生活を成り立たせる程度の稼ぎならば、何とかなるはずだ。
富貴を望まない、競争社会から一歩離れた生き方を選んでみて、確実に僕は生きやすくなった。
生産性を高める営為と「成長」とはイコールではない。
僕のような生き方をしていても人間的な成長は果たせるはずだとの確信がある。
僕の望む成長、その成果は経済成長に資するものではない。
そうではあっても、僕は自分の生を全うするまで成長をし続けていきたい。