希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕には「知性」と「教養」が欠けているという件

僕には知性と教養が欠けている。それも決定的に。

このことを実感するようになったのはここ数年のことである。

僕がサラリーマンや自営業をしている時には知性や教養のことなんてこれっぽちも意識しなかった。どちらかと言えば実学志向で、仕事にすぐに役に立つ知識ばかりを追い求めていた。例えば社労士事務所を営んでいるときは、顧客獲得のノウハウ、実務に関する虎の巻、判例や行政通達といったものばかりを「学習」していたのである。

 

僕が人文科学・社会科学(時たま自然科学も)に関する知識をもっもともっと得ようと思ったのは、社労士を辞めて、うつが抜けて以降のことである。

そうなったのには明確な理由はない。ただ何となく「俺には教養がないなぁ」と自覚し、「このままではいかん」と焦りだしたのだ。今後の職業人生に直接役に立つわけでもないけれども、もっともっとこの社会のありようやこの社会の成り立ちについて学ぼうと決意したのである。

 

僕には知らないことがあまりにも多くありすぎると気付き(気付くのが遅いが)、読書の時間を確保できる生活様式を採ろうとし、今のヒマ人的生き方に行き着いたのである。ある種の遁世とも言えるし、現実逃避とも言えよう。

とにもかくにも、僕は一日最低でも3,4時間を読書にあてることにし、大体それを実行している。こんな生活を数年間続けてはいるけれども、僕は教養人には程遠いところにいる。知性にも欠けている。自分のバカさ加減にしばしば閉口する。

 

厄介なのは、知性や教養は単純に知識量ではないことだ。知識をいくら取り入れても、それが即教養や知性に結びつかないところが困ることだ。かと言って新たな知識を取り入れることをしないと、バカのままでいることになってしまう。

ここは「俺はインテリになりたいわけではない」と開き直るしかない。

せめて人様にバカにされない程度の内容のブログを書き続けるために、インプットを続けるしかないのかな、と思っている。

 

自分が知らないことがこの世には数多あるということを知るという営為が教養である、ととある知識人は述べている。この説に倣うならば、僕には多少の見込みがありそうだと楽観的に考えてみることにする。

訳知り顔で他者を見下し、自分の知識量をひけらかすような人間だけにはなりたくない。

常に僕には「知らないことが山ほどある」という現実に向き合い、「知らないことが沢山あるということを知る」という態度を保持しつつ、「知ること」「学ぶこと」を続けていきたい。

僕の人生の目的として。