希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「霊が見える人」には温かく接しようという件〈再掲〉

霊感が強い、と言う人は結構いる。そのことを自分の存在意義だとすることに僕は異論はない。霊感が強いと言い張る人に対して、「嘘吐き」だと詰るのは大人気のない行為である。

 

初出 2017/12/16

 

僕は心霊やUFOといったオカルトものがあまり好きではない。若い頃は結構好きでオカルト関連の書籍やテレビ番組をよく読んだり観たりしていた。特に精神的に不安定な時期はオカルトにすがっていたような気がする。

 

メディアにはよく霊能者を自称する人が登場する。その霊能者を見て僕は胡散臭いなあ、眉唾ものだなあという感覚を持っていた。

僕の周囲にも霊が見えるとか霊感が強いといった人たちがいた。僕はそれらの人たちに対して「何だかなぁ」という感じで接してきた。

霊なるものが実在するのか僕には分からない。霊の存在を僕は「信じない」というだけの話である。

科学がもっと進歩し、霊というものが目に見えないエネルギー体とか波動とかであると証明される日が来るのかもしれない。僕は目に見えない想念や情念がそこら中にうろちょろしていることに耐えられないのである。気色悪いのである。だから僕は霊の存在を「信じない」のである。霊が存在するかしないのかではなく、信じる信じないのレベルの話にしておいて、何となく安心感を得ようとしているだけの話だ。

 

霊が存在するかどうかということではなく霊が見える人の方に僕の個人的な興味が向いている。

霊が見えると主張している人たちが相手の弱みに付け込んで暴利を貪ったり、悪い霊が憑いてると言って不安に陥れたりするような行為は当然に是認できない。

みんなで集まっているところで「あそこに見える」とか言ってワーワー騒ぐ程度のことは罪がなくて悪いことではない。その程度の「遊び」は目くじら立てずに認められるような「ゆるさ」があってもいい。

 

霊が見えるというのは何の取り柄もない人が他者との差別化・差異化を図るための手軽な手段のひとつとして用いられるものである。身も蓋もない言い方ではあるが、全く的外れなものだとは言えないと思う。

自分は人とは違うと言いたいがために「霊が見える」と言い募る。僕はかつてはこのことが許せなかった。普通の人には見えないものが自分には見えると言い張って優越感に浸るという行為が許せなかったのだ。

しかしながら、今はかなりこの心境に変化が生まれてきている。

 

霊が見えるという人がいても別にいいんじゃないか、と僕は今は思っている。霊が見えるという人たちを気持ち悪がったり、自己顕示欲の塊だと一方的に非難するのは「大人」のする態度ではないのではないか、と思うのである。

霊が見えるという人がもしかしたら何らかの精神的なトラブルや何らかのトラウマを抱えているのかもしれない。あるいは本当にその人だけに霊のようなものが見えてしまって苦しんでいるのかもしれない。他人には見えないものが、自分だけは見えてしまうというのはとても怖いことである。

 

僕たちは学校で(特に義務教育機関で)「均質化」を強いられ、みんなと同じようにしろといった同調圧力に晒される。ところが高等教育機関ではあるいは社会に出てからは他者との差別化がなされなければ生き残れない、とのプレッシャーを受けることになる。しかも「個性」がすべて認められるわけではなくやはりある程度の「均質化」「同質化」の下での差異化を求められる。

全ての人が他人と明らかに違う強い個性を持っているわけでもなければ、人より優れたもの(才能やスキル等)を持っているわけでもない。

ある人が自分の個性を表出させるひとつの方法として「霊が見える」ことにしても、誰もその人を責められない。

 

僕は霊の存在を信じないけれども、霊が見えるという人に対してはできるだけ暖かい態度で受け入れるようにしたいと思う。

霊が本当に存在するとかしないとか、は大した問題ではない。

霊が見えるという人がいても、実害を被らない限りはその人と関わり合うことに何の問題もない。

霊が見える人は「ちょっと変わった」人というだけのことである。「ちょっと変わった」人なんてこの世にはごまんといる。

「ちょっと変わった」人を「まあ、そんな人もおるわな」といった感じで鷹揚に構えるのが大人の態度である。