労働基準法すら守れない会社を擁護する論法として「労基法を守っていたら会社が潰れる。会社が潰れたら労働者は路頭に迷う。」というものがある。
確かに勤めていた会社が倒産すれば従業員は一時的に路頭に迷う。
しかし大抵は転職先が見つかり、何とかなるものである。
ただ、中高年の人たちは現状ではなかなか次の就職先が確保できない状況にある。
この中高年の失業している人たちが無能なのではない。
この国の多くの会社が採用している賃金体系・人事体系が中高年の人たちを排除するのである。
中高年の人たちに限らず、若年者にしてもなかなか転職は難しい。
昔から言われていることだけれども、労働市場が硬直化していたり、次々と職場を変える人たちに対して「どこか問題があるんじゃないか」という偏見が根付いていたりしている。
労働環境に問題があっても、その会社をなかなか辞められない。これは不幸なことである。転職しても待遇が悪くならないような状況が整備されていれば、無理してひとつの会社に固執する必要もない。最悪の場合、過労死や過労自殺に至るようなこともない。
この国の雇用環境は問題だらけである。これらの問題を一挙に解決するような妙案はない。
ただ、転職しやすい状況になること、ひとつの会社にしがみつかなくてもそこそこの生活レベルを維持できるような状況になれば、劣悪な環境で働き続けている労働者を救済するひとつの突破口になるのではないかと思う。
「会社は潰れても、人は潰れない」ような社会になれば、働く人たちが生きやすくなるというわけである。
会社の利益の極大化のためだけに、会社が大きくなるためだけに身を粉にして働くというのはバカバカしいと僕は思っている。
会社の利益をいかに多く生み出したかによって選別され査定される人生なんてクソみたいなものだとも思っている。
会社なんてたかだかカネ儲けという目的のために「便宜上」作られた組織に過ぎない。いつ、どこで潰れてもいいようなものだ。そんなもののために人生の大半を費やして、心身を擦り減らすことなんて馬鹿げている。
気に入った会社があったらそこで働いてやって、気に入らないことが出てきたら辞めて別の会社でまた働いてやる。この程度のメンタリティで十分なのである。
言うは易しだが、上述のようなメンタリティを涵養するのはなかなかに難しい。働き続けているうちについつい会社の論理・組織の論理に絡めとられてしまう。そして、その論理が疑う余地のない正しい価値観だと思い違いをしてしまうのだ。つまり、「会社ありきの自分」という自己規定をしてしまい、それに疑いを持つことすらなくなってしまうのである。
このループから抜け出さないと、労働者は永遠に搾取されるだけの存在に堕してしまうことになる。
「会社なんて潰れても何とかなる」、「気に入らない会社になんかいられるか」、といった気構えさえあれば何とかなる。
このような気構えを持つことが有効な生存戦略になりうるはずだという確信が僕にはある。
会社は潰れても、自分は絶対に潰れないという自信を持つにはどのようにすればよいか、ということを僕は常に考え続けている。今は明確な絶対的な答えは出せないでいるけれども。