希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は弱者だけれども、「弱者権力」を嫌っているという件

僕は自分が社会的弱者にカテゴライズされると思っている。

ビンボーだし定職に就いていないし歳も結構喰っているし社会的信用なんてものはない。

ダメ人間であり、そのことを自覚している。

 

僕は公正な再分配と同時に健全な競争なされていて、機会の平等が担保されている社会を希望している。社会的弱者や異端者等マイノリティが包摂される社会が健全であると思っている。

僕のようなダメ人間でも日陰者にはならず堂々と生きていける社会になってほしいと切望している。

 

社会的強者とされる人たちは上手いこと手を結んで自分の利益の極大化を図っている。一方、社会的弱者は分断され、バラバラのままで孤立無援の状態に置かれていることが多い。

僕は弱者こそは連帯が必要だしお互いに助け合う精神が必要不可欠だと思っている。ひとりひとりが微力でも手を携えれば大きなパワーを生み出し、この社会を変える力となるはずである。

 

僕は以前にこのブログで生存のための闘いである社会運動は必要であると書いたことがある。今もこの考えは変わっていない。

人間らしく生きるということは権利以前の問題であり、人としての尊厳に関わることである。その尊厳を取り戻す戦いを有効なものにするためには、弱い立場に置かれた人たちが連帯しなければならない。強い者たちだけを世にのさばらせておいてはならない。

 

しかし、心にとめておかなければならないことがある。

それは自分を弱者という立場に安住させて非寛容に強者から資源や利益を奪い取ることが正義だとの妄信を抱くことである。弱者のふりをして強者を屈服させることが絶対的に正しいと思い込むことである。社会的に劣位に置かれた弱者こそが社会的正義を実現できると断言することである。

これらのメンタリティが行き過ぎると「弱者権力」に転化する。

 

いくつかの社会運動、その基盤となった運動体は弱者権力を身に纏い、社会に悪影響を及ぼすこととなった。そのためにかえってマイノリティに対する恐怖心を植え付け、排除される事態が生じてしまった。

当初は自己の生存のための闘争であったものが、いつしか利権を貪るために組織を存続させることが自己目的化してしまったのである。

 

弱者権力の害悪は特定の組織・団体に限った話ではない。

人はいつの世も「正義」の名のもとに他者を損ない、傷つけずにはいられないのである。「正義」とそれを基にしたイデオロギーほどタチの悪いものはない。

 

社会的弱者は失われた尊厳を取り戻すための意思表示はしなければならない。しかし、その権利請求は暴力的なものであってはならないし、他者の尊厳を損なうものであってもならない。まあ、この点がなかなか難しいのは確かなのだけれども、動機が正しければどのような手段を用いても良いという考え方は危険である。

弱者権力を前面に押し立てる人たちは、この手の動機が善であれば何をしてもいいというメンタリティを有しているケースが多い。社会的弱者の権利請求といえども、ベースには人と人との関わりがある。人と人との関わり合いは信頼を基礎として築かれるものだ。その信頼を壊すような手法で成果らしきものを手にしても無意味である。

 

社会的弱者の尊厳の回復とは、弱者以外にカテゴライズされた人たちから資源や利益を奪い取ることではない。平和的な方法によって、時には贈与され、時には分かち合うべきものである。

理想論、夢想的であるかもしれないけれども、僕はそう信じている。