人は社会的な生き物である。
人はひとりでは生きていけず、様々な人と関わり合いながらどうにかこうにか生きていける。
当たり前のことである。
人が共同体の中で暮らしていくためには様々なルールが必要となってくる。この社会規範として法があり宗教規範があり道徳がある。
僕たちがスムーズに社会生活を営むためには各人それぞれに道徳心や公共心が必要なのは言うまでもない。
人それぞれが己の好き勝手放題に振る舞えば共同体は壊れてしまう。
したがって共同体の一員として生きる僕たちにはそのためのルールがどうしても必要となってくる。そこで道徳の登場となり、そのベースとして心の教育が必要ではないかとの声が出てくるのである。
僕の全くの個人的な意見なのだけれども、「上から」道徳心が大切だの心の教育を充実させよだのといった声が大きくなったとき、そこにはエスタブリッシュメントの邪なものが隠されているのである。
一例としては「家族を大切に」といった類の言説が幅を利かせ出すと、社会保障費の削減が意図されている。国家や自治体が生存権の保障という最も大切な権利の実現を蔑ろにするのである。そのために「家族」に責任を負わせるためのスローガンを創り出すのである。家族なんか不要であるといった極端なことを言う人は皆無である。
昨今話題となっている教育勅語のどこが問題なのかというと、その内容自体ではなく、その作成の過程や意図が問題なのである。教育勅語は天皇が「臣民」に対して親を大切にしろとか隣人と仲良くしろとか国家の危機には一丸となって戦えとか「上から」人々の価値観を一方的に決めてしまうところに問題があるのだ。西洋から流入しはじめた個人主義的な価値観が蔓延することに危機感を覚えた時の政府が勅語という形にして思想統制を図ろうとしたものなのである。
上からの道徳教育や心の教育は思想統制以外の何物でもないのである。
人は他者に危害を及ぼさない限り、どのような考え方をしても構わない。思想・良心の自由であり、これは憲法で明文規定された自由権のひとつである。自由権の中でも侵してはならない重要な権利である。
思想・良心の自由は憲法の規定以前に、人として最も尊重されるべきものである。ところが支配者層がこの自由を抑圧しようとしてきた歴史がある。支配下にある人々が自由にものを考えて、自由に生きようとすることが支配者層にとっては誠に都合が悪いのである。
民主政という政治システムを採用し、人権思想が普及して一見思想・良心の自由は保障されるようにはなった。しかし、潜在的に支配者層は民衆の思想を統制したいという邪な願望を持ち続けているのである。
道徳心や心の持ちようなどは人との関わり合いの中で自然に育まれるのである。こういった場面ではこのような態度を取らなければならない、こんなことをしては非礼になる、といった感じのことをひとつひとつ身に付けるのである。親や兄弟姉妹や叔父叔母から、隣人から、友人から、学校の先生から、職場の上司先輩同僚から、その場面に応じたルールを学んでいくのである。この「学び」で十分なのではないか。国家が「あるべき人物像」を勝手に作り出し、それに適った人を強制的に作り上げることなんてあってはならないことである。
耳ざわりの良い心の教育、道徳など胡散臭いものだとして一歩引いた態度を取り、その裏にある邪悪なものを感じ取る感性を失ってはならない。