多くの人たちは成功譚を好む傾向にある。特に成功した経営者の自伝の類は次々と刊行され、ベストセラーとなるものがある。
「失敗学」に関する著書もいくつかあるにはあるけれども、爆発的に流行はしない。僕の個人的な感覚では失敗に関するものの方が圧倒的に面白くてためになると思うが、世間ではどうやらそうではないらしい。
当たり前の話だが、人の一生においては成功よりも失敗の数の方が多い。
それなのに大抵の人は失敗をすることを恐れ、「失敗とは言えない程度の失敗」で留めようとして悪戦苦闘を続けるのである。
大きな失敗をすれば取り返しがつかなくなるという恐怖に取り憑かれているのである。
失敗すればリカバリーが難しいとの思い込みから、リスクを取ることに躊躇する人たちが多くなるのは仕方がない、という面もある。
実際にこの社会では一度大きな失敗をするとなかなか復活することが困難である。
例えばビジネスにおいてはそもそものシステムが敗者復活を難しくする設計となっている。具体的には融資のシステムが連帯保証人制度を頑なに採用していたり、担保至上主義を採用していたりしていて、事業の有望性や将来性等を二の次にしている点である。もし、一度事業に失敗してしまったら、どんなに成功しそうな事業プランを持っていても容易く融資はしてくれないのが現実である。そういう状況だから「敗者復活」の芽が摘み取られてしまうケースが多発するのである。
サラリーマンにしてみても雇用の流動性が低く硬直した労働市場下では失敗を殊更に恐れて転職がしにくい状況にある。それゆえにいつまでも今の会社にしがみつく、という醜態をさらし続けることになる。
こんなに世間の批判を浴びているブラック企業がなくならない理由の一つとしてはこの失敗を許さない風潮、失敗からのリカバリーが難しい現状があげられる。
サラリーマンに嫌気が差したならば自営やフリーランスという働き方がある。しかしながら、フリーランスになるにしてもそれに失敗したならば元の勤め人に戻ることもなかなかに難しい。これは僕自身が経験したことでもある。いざ再就職しようとしても、フリーランスや自営の経歴を忌避する会社が多いのもまた事実なのである。
なぜ、成功することよりも失敗することの方が多いことが自明なのに、この社会では失敗することを忌避し、失敗した人たちを包摂しないのだろうか。失敗した人たちは努力を怠ったわけではなく資質に問題があったわけでもなくただ「時の運」がなかったケースが多いだけなのに、なぜその失敗を殊更に責めるのだろうか(時には人格攻撃に晒されることもある)。
その根源的な理由が僕にはよく分からない。
ムラ社会の名残(強すぎる同調圧力や横並び志向等)だと言えるかもしれないが、どうもそれだけではないような気もする。
失敗が人生の落下に即結びつくような社会は当然に閉塞感で満たされる。
ちょっとしたリスクを取ることも憚られるし、仮に成功したとしても僻みや妬みの対象となってしまう。大きな失敗をしようものなら人非人扱いされかねない。
社会そのものの雰囲気が多様性や寛容さをシャットアウトしているのである。強い均質性への強制圧力がある、と言い換えても良い。
僕は失敗した人たちをすべて受け入れろ、とまでは言わない。
ただ、再び立ち上がろうとする人たちを一度や二度や三度の失敗ごときで殊更に責めたて、再起の邪魔だてをするな、と言いたいだけだ。
人は誰でも失敗する。この当たり前のことを受け入れるだけで社会の風向きは変わるはずである。