僕は雇われて働くということがたまらなく苦痛である。
世のサラリーマンが長時間労働やサービス残業をこなし、都市部では非人間的なラッシュの通勤地獄であっても日々休むことなく働き続けていることに敬意を覚える。
僕にはとてもじゃないができないことである。
僕がサラリーマンをしていた頃は常に「やらされ感」がつきまとっていた。
割り当てられたほとんどの仕事はつまらなくて誰がやっても同じじゃないかとネガティブな思いで何とかこなしていた。
このことは僕がたまたま面白い仕事に当たらなかっただけなのだと思うこともあるけれども、いや違う、世の仕事なんて似たり寄ったりで面白くて創造性のある仕事が出来る人なんてレアケースなんだとも思ったりもしている。
僕はフリーランスで仕事をしていた期間が結構ある。社労士事務所を自営していたときはまさにフリーランスだったし、非常勤で専門学校や職業訓練校の講師をしていたときは雇われてはいたけれども裁量の余地が大きい形で働いていた。
これらの仕事をしているときはほとんど「やらされ感」はなかったように思う。
業務の締め切りが重なって連日夜遅くまで仕事をしていても精神的な疲労は少なかったし変なストレスを感じることもなかった。
僕は社労士事務所を辞めてから幾つかの介護福祉関連の事業所に勤めたが、どこも長続きしなかった。自分が並々ならぬ興味を持った業界であるにも関わらず。その理由としては劣悪な労働条件や人間関係等があげられるが、それはどの業種・業界でもあることである。やはり「雇われて働く」こと自体がとても苦痛だったのだ。
現代社会では雇われて働くことは当たり前のことである、とみなされている。仕事をしている人たちの殆どが組織に属している。仕事をすることほぼイコール雇われて働くことなのである。会社やその他の役所や団体等に雇われて働くことができない人たちは少数派であり、いわば真っ当ではない人たちなのである。雇われて働くことによって奪われる自律性、自由などは物の数ではない、そんなことは当たり前だと受け入れなければならない。そんなことに苦痛を感じているようでは、この社会でまともに生きてはいけないのである。
ならば、僕は「まとも」には生きていけないことになる。若い頃から薄々は感じていたことだけれども、それを全面的に受け入れることはかつては嫌だった。たとえ生きづらさを感じていても我慢して人並みかあるいは人並み以上の経済的豊かさや社会的地位を得ようともがいていたのだ。
雇われて働くことに苦痛を感じ、無理してそれを続けると心身共に異常をきたすことを繰り返して、やっと自分は「まとも」に生きることは無理であることに気付き、別の生き方を探そうという考え方に変えざるをえなくなった。
僕はこれで良かったのだと思っている。苦痛を感じながら、面白くもないことを延々と続けることなんて限られた人生・時間の浪費である。
僕は今、僕なりの「真っ当」で「まとも」な生き方を模索し続けている。
多くの人が当たり前にできることが僕にはできないことに悲観はしない。
カネはなし、社会的地位や名誉もなし、社会的信用もなし、それでもいい、面白くて楽しい人生を送ろうとあれこれ思いを巡らせながら実践している。
雇われて働くことを苦痛に感じる体質(?)に生まれついたことも悪くはない、思っている。かなり強がり・自己正当化が入っているけれども。