学校でのいじめによる自殺事件が後を絶たない。
会社でのパワハラ、いじめも同様である。
この世は「強きを助け、弱きを挫く」というメンタリティを持った人たちばかりなのかと暗澹とした気持ちになることがある。
ただ、弱い者いじめが起きる原因を個々人の資質やモラルばかりに求めても意味がないことである。身も蓋もない言い方をすれば、人という生き物は自分より弱い者を見つけ、弱い者を虐めたがる性を持っているものなのである。
そんなどうしようもない人間は自分の弱さや醜さを覆い隠すために共同体を作り、その共同体の中ではしてはならぬことを決め、その禁を破ったものに罰を課すようになったのだ。自分よりも弱い者は助けなければならない、というきまりが存在するのは共同体の維持のためにはどうしても必要だからなのである。
人と人とが助け合って生きるためには弱い者に手を貨さなければならない、と分かってはいてもなぜ弱い者いじめが社会に蔓延するのだろうか。
人の本性によるものであることは明白である。
人の流動性の低い「閉じた」共同体では「生贄」的な人が必要となり、特定の人に対する攻撃によってその共同体の内部での結束が高まることもある。
そうなるとこの社会では決して弱い者いじめがなくならないことになる。
学校や会社等の閉じた集団ではどうしてもいじめが起きることになる。
だからといっていじめが起きるのは当然だとして放置しておいていいわけではない。しかし、いじめはいけないことだ、いじめをなくすべきだという掛け声だけではそれはなくならない。
弱い者いじめ自体を根絶させることはできないと考えて、そのことを前提として対策を講じるより他に手立てはないように思う。
人の本性は変えることはできない。社会を成り立たせているシステムは変えることができる余地がある。有体に言えば「逃げ道」が幾つもあれば最悪の事態は免れることになる。逃げることは良くない、という悪しき根性論・精神論を排して現実的な手立てによっていじめによる被害を最小限に留めることを考えるべきだと思う。
僕たちはちょっとしたきっかけでいじめの被害に遭うことになる。
絶対に安全な人なんてほとんどいない。
自分が所属する共同体内部で些細な人間関係の機微でいじめたりいじめられたりすることになる。その共同体内部での力関係が少しでも変化すれば立場は変わる。その共同体に留まる限り立場に変化がなさそうだとすれば、共同体から脱出するしか手がない。
昔のムラ社会なら共同体から抜け出る術は殆どないが、現代は自分の所属する共同体を選べる時代である。ただ、その一見選べる共同体が「閉じた」ものか「開かれた」ものかが問題となる。
開かれた共同体ならばいじめは起きにくいし、もし起きても出入りが自由なので何とかなる。人間関係が澱のようにならなければ陰惨ないじめは起きにくい。
ひとつの共同体に縛られることがなければ、自由に数多ある共同体を行き来できる状況にあれば、いじめによる被害は抑制されることになる。
ただし、共同体を自由に移動できるということは個の確立が求められるし自己責任を求められる。共同体に寄りかかった生き方ができなくなるのだ。このことを良いことと取るかどうかは個々人の価値観に依る。
いじめのリスクがあるが濃密な人間関係かいじめのリスクが低いけれどもドライな人間関係か、どちらが良いのか僕には分からない。極端な二者択一的なとらえ方自体が誤っているのかもしれない。
「いじめがあっても、何とかやり過ごせて、楽しくやれる」そんな社会がいい、としか僕には言いようがない。