僕たちは幼いころから頑張ることを強要される。
頑張ることが絶対的に善だという考え方は悪しき精神主義につながる。
また、同時に思考停止状態にも至ることがある。
初出 2016/7/26
僕たちは程度の差こそあれ頑張って生きている。
一見怠惰に過ごしているように見えている人でも、その人なりに頑張っているのだ。
この社会では「頑張る」ことがさも当然という風潮がある。もし何らかの理由で頑張っていない人を見つけるとその人に対して「たるんでいる」だの「向上心がない」など「人として終わっている」などといったネガティヴな見方をする。お節介な人は頑張っていない人に対して頑張れよ、と励ましたりして頑張りを強要する。
他者から強要された頑張りはそれはそれは辛いものである。監獄に足かせを付けられて放り込まれたようなものである。
頑張ることが美徳だという価値観は未成熟な社会、成長途上の社会では親和性があった。今日頑張れば明日はもっと良い日になっているという期待ができたからだ。
頑張ることが尊いという考え方が正しいと大多数の人が共有できたのは一過性のものに過ぎないと冷静にとらえる必要がある。今は頑張っても報われない人たちのほうが圧倒的な多数派なのだから。
勉強にしても仕事にしても頑張りさえすれば自ずと結果はついてくる、という楽観的な考え方・ポジティヴな考え方が実は人々を追い詰めて苦しめている。
いくら頑張っても結果が伴わないことがある。いやむしろその方が多い。運が良くて頑張りが報われることがたまにある。世の自己啓発系の本やセミナー等はその一握りの成功事例を殊更に持ち上げているだけなのである。
確かに人は生きているうちに頑張らなければならないときがある。大概の人はそのときには自分なりに頑張ってみる。問題はその頑張りの結果が伴わないときである。自分の頑張りが報われないことによって自分を責めてしまうことが多々ある。自分の能力が足りなかったのかとか、あるいは頑張りが足らなかったのかと自責の念に駆られてしまう。そして次の一歩を踏み出せなくなり、その場に留まるか退歩してしまう。
頑張ることがイコール前に進むこととは限らないのである。
僕たちは「頑張ること」の繰り返しが人生だと思い違いをしているのかもしれない。常に頑張り続けなければならないとの強迫観念に縛られているのかもしれない。
頑張るときもあれば頑張らないときもある、というようにごくごく当たり前のことを忘れないように意識する必要がある。
例えば働くことに疲れたら思い切って会社を辞めて、しばらくの間自分の好きなことだけをしてみるとか、無為の時を過ごしてみるなどの「頑張らない」ことを意識してやってみる。
今勤めている会社を辞めてしまったら生活設計ができないと言う人もいるだろう。次の仕事が見つからなかったらどうする、不安だ言う人も多いだろう。少々無責任な物言いになってしまうが、「何とかなる」と僕は思う。実際に何とかなるものだ。
今の自分が置かれた状況をそのまま続けて消耗するか、リスクを取ってみて擦り減らない生き方をしてみるか、考えてみる余地はあると思う。
無理を続けてまでも頑張ることなんてない。