現実を直視することはなかなかに辛いことである。
僕たちは理想と現実のギャップに直面し、折り合いをつけながら何とか生きている。
僕はこのブログで何度も言及しているが、世のサラリーマンは自身が「労働者」であるという現実から逃避しているのも、その現実に耐えられないからか、あるいは単なる無知からである。
会社に雇われて働く人たちは殆どが「労働者」である。ビジネスマン、ビジネスパーソン、サラリーマン、ホワイトカラーなどなど表現をいくら変えても労働者という本質は変わらない。
仕事の内容や待遇を会社から一方的に決められている。自分が積み上げた売上や業績のほんの一部が賃金に反映されるに過ぎない。いくら会社に貢献しても、その売上のほとんどは会社あるいは株主が取り上げる。会社に貢献すればするほど「搾取」される量が増大する。労働者はわずかな賃上げとボーナスというおこぼれをもらっているだけである。
搾取そのものは決して「悪」なのではない。資本主義体制は搾取なしには成り立たないシステムなのだ。大多数の人たちが資本主義体制を支持しているからには、会社による搾取を否定できない。労働力の再生産が可能なだけの賃金しか労働者は得られないことを甘受するしかない。
僕は左翼でもマルクス主義者でもない。
労働、特に賃労働の本質を突き詰めていくと、上述のようにならざるを得ないのである。賃労働の「現実」なのである。労働者の置かれている現実なのである。
大学新卒者の就活において、学歴、正確には学校歴が大きく左右するのもまた現実である。有名企業には特定の有名大学を卒業した者しか入れないのも、無名の大学の出身者が排除されるのも現実なのである。
当然に有名企業の正社員になることだけが有意義な人生を送るための条件なのではない。有名企業の正社員になっても行き詰ることもあるし、中小企業で活き活きと働いて納得できる生き方をしているケースもある。
しかし、社会的威信や待遇等において有名企業の正社員が有利な立場にあることは事実である。
僕たちは見たくもない「現実」に囲まれて生きている。
貧困問題、高齢者の介護、育児・教育、労働問題などなど数え上げればキリがない。
自分の力では変えられない「現実」にぶち当たる度ごとに僕たちは途方に暮れる。その度に現実を直視することに耐えられずに現実から逃避して我が身を守る。
現実は変わらないと諦めてその現実を受け入れるということを繰り返していく。これでは結局何も変わらないと知りつつも。
現実を変えるためには変革するだけの大きな力が必要になる。しかし、その変革だの革命といった荒療治が根本的な解決にならないことを歴史が証明している。僕たちもそのことを知っている。
現実はそうそう変えられない。この厳然たる事実を直視しつつも、その現実が固定化することに抗うことが必要になってくる。
社会運動や政治的な活動もひとつの手段であるが、それらだけには限らない草の根的な活動、例えばある問題について考える小さなコミュニティがあちらこちらに生まれ、ネットワーク化していくような方法で現実に向かい合うようになると面白い。地道で拙速な方法だけれども、ひとりの力でどうしようもないことがあれば連帯するしかない。
現実から目を背けているだけは逃避しているだけでは何も変わらない。
自分ができそうなことをできる範囲でする、というだけで何かが変わるかもしれない。