希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自分は取替え可能な存在である、が悲観することはないという件

人は誰もが唯一無二の存在である。

自分はこの世界でただひとりであり、かけがえのない存在である。

この考え方は正しい。

誰も自分に代わることはできない。

 

しかしながら、現実は悲しいかなそうではない。

人は社会の中の様々な関係性を保ちながら生きている。社会や組織の中で自分の役割を果たしている。社会を構成する一つのピースに過ぎない。

自分が組織から出ても、その組織は何事もなかったように依然として存在し続ける。自分はいてもいなくても良い存在に過ぎないのである。

この厳然たる事実は時として自分の存在価値を否定してしまうことになる。自分がこの世に存在する意味を見失ってしまいがちになる。

 

身近な例で考えてみよう。

会社では何がしかの役割、つまり職務をあてがわれる。その職務は何も自分ではなくても他の誰かが担っても格段問題はない。自分はたまたまその職務に就いただけであり、自分でなければならないという訳ではない。人事異動で現職を離れたり、退職してもその会社は次に別の誰かをその職務にあてがうだけであり、会社自体には何の影響も及ぼさない。

当たり前の話である。

ある職務の担当者が変わるだけで会社の経営に影響を及ぼしていたらやっていられない。そんな会社は存続する価値も無い。

働く側からすると、自分は組織の歯車あるいはそれ以下の存在だと思い知らされることはプライドが傷付くことになる。しかし、それは動かしがたい事実であり現実なのである。

殆どの人たちは代替可能なものなのだ。

時々、自分がいなければこの組織が回らないとか考えている人がいるが、それは思い違いであり、思い上がっているだけなのである。あるいはその思考や行動を経営者に利用されているだけなのだ。経営者の思いのままにこき使われているだけなのである。

 

自分は代替可能な存在であり、自分の代わりはいくらでもいるということを悲観することはない。

必要以上の責任やプレッシャーから逃れることができる。

煮詰まったときに、別に自分がすべてを背負うことはない、誰かが代わりにやってくれると開き直ることができる。

自分が与えられた役割なんて仮初のものなのだ。

世の中の仕事は、ごく一部の例外を除いて、誰にでもできるものなのである。その仕事に殉じることはないし、ましてや命を懸けることなどない。

 

自分がこの世でかけがえのない存在でありたいという心情は理解できる。

しかし、それは傲慢というものだ。

僕たちは互いに代わりがいくらでもいると意識するからこそ、他者とのつながりを大切にし、社会の一員だと意識して生きていくことができる。

 

僕は自分の代わりなんて掃いて捨てる程いることを受け入れながら、でも自分は自分だという思いを最後の砦として持ちつつ生きていきたい。