人はひとりでは生きていけない。
コミュニティに属し、そこで自分の役割を与えられ役割を果たして自分の存在意義を見出すことになる。
いわゆる中間社会や中間団体に属してリスクヘッジをしてきた。地域のコミュニティ、学校、会社、青年団、労働組合等の中間社会の果たしてきた役割は大きい。
人が属するコミュニティで最も規模の大きいのは国家だが、一個人と国家が直接対峙することは問題が多くなる。
新自由主義政策を推し進めたイギリスのサッチャーは「国家と個人だけがあれば良い。社会は不要だ」という旨の発言をし、実際にコミュニティの解体を図り、経済成長を実現したが庶民の生活を破壊した。
今、様々なコミュニティが解体されて、ややもすれば僕たちは剥き出しの個人が社会と向き合っている。地域のつながりや職場や学校でのつながりが薄れている。また「世間」というものを意識する度合いが一見したところ低下している。
個人の自立が推奨され、伝統的な共同体に依拠した生き方が疑われている。
ただし、このことは決して悪いことではない。陋習や因習に縛られた生き方から解放されることになるからだ。それと引き換えに自己責任で自分の人生を全うしなければならなくなる。
人とは厄介というか贅沢な生き物で、ひとりで生きていくのは辛いが、さりとて共同体の縛りからは逃れたいと願っている。「ムラ社会」的なものを忌避する一方で「ムラ社会」的なものに郷愁を感じたりもする。
おそらく伝統的なコミュニティを復元することは困難である。また、多くの人たちは伝統的なコミュニティにどっぷり浸かりたいとは考えてはいない。しかし、ひとりで生きていくのはしんどいと感じている。
ならば自分なりの人とのつながりを創るしかない。伝統的な共同体と似て非なる新しい共同体を創り、そこに身を寄せて他者と関わりあいながら生きていく。
こうなると、個を優先した、自由を前面に押し出したネットワーク的なつながりを自分なりに創るしか手はないような気がする。
出入りが自由でヒエラルキーがなく絶対的な存在がいないようなネットワーク型組織を形成する。そしてそのようなネットワークをいくつも掛け持ちする。縛りのない「ゆるい」ネットワークでなければならない。問題解決型のネットワーク・組織ならば、ある程度の成果を得たならば解散するようなフレキシブルなものがよい。数多くのネットワーク・組織が次々と生まれ、次々と消えていく。自分の趣味嗜好に合ったところに属し、いつでも参加できて、いつでも辞めることができる。
自分の「居場所」となるゆるいネットワークを創ったり、既存のものに参加したりしながら、他者とほどよい距離を保ちながら関わりあっていく。
僕は「ゆるい」つながりを大切にしていきたい。