フリーター、ニートの問題あるいは少子化の問題も経済成長によって解決するという妄言を吐く自称識者が多い。
経済発展によって解決する問題も確かに存在する。しかし、何でもかんでも経済成長によって解決するという考えは単細胞である。
初出 2015/7/17
メディアを通して僕たちは一元的な価値観を押し付けられている。
その最たるものが「経済成長至上主義」的なものである。この社会で起きている数多の問題は経済成長で解決できるという能天気な言説である。
貧困の問題にしても、経済成長さえすれば解決できると信じている人たちは多い。一部の特権階級が富を独占し、大多数の人たちには恩恵がないという社会構造(資本主義体制下の)の矛盾から眼を逸らせている。
集団的自衛権の問題にしても、建前は国民の安全の確保や国際関係の安定等であるが、実は多国籍企業をはじめとする大企業の利益の確保が本当の目的であるということが秘されている。グローバル化、経済成長の名の下に新たな「帝国主義」が進行しているだけなのである。
この国はあまりにも経済成長というドグマに毒されている。GDPの数字に一喜一憂しすぎている。
庶民にとっては自分や家族が安心して生活を営むことができればよいのである。大企業をはじめとする企業の儲けがどうであろうと、自分たちの生活が安定すればいいだけの話である。ましてやGDPの値がいくら上がろうとも、自分たちの生活が苦しいままでは意味のないことなのである。
僕たちは気付いているのだ。
たとえ経済成長がなされても、それがエスタブリッシュメントを肥え太らせるだけのものに過ぎず、庶民・労働者の生活を破壊するものだということを。
労働者や庶民の犠牲の上に経済成長がなされているということを。
僕たちは安全な「食」、快適な「住」、人間的な「労働」をベースとして、ひとりひとりが安心して生活を営むことを切望している。これらは人として最低限の欲求である。
これらの最低限の欲求すらも、経済成長なしには実現できないと妄言を撒き散らす輩が跋扈している。彼ら彼女らはエスタブリッシュメントの飼い犬たちである。走狗である。
経済は人が人に値する生活を営むために必要なだけ回ればよいだけのものである。経済成長は二の次である。特にこの国においてはそうである。
これ以上の物質的な豊かさや便利さを追求する必要はないように思われる。同時にこれ以上の経済成長を望むと、さらに社会に歪が生じるおそれがある。
経済成長に至上の価値を置く価値観を今一度見直す必要がある。経済成長が庶民に幸福をもたらすなんて幻想に過ぎない。
経済的な指標にプラスをもたらさない経済活動にもスポットを当てるべきである。一部にその動きが見られるが、まだまだ規模は小さい。多くの人たちは経済成長至上主義のマインド・コントロールから自由になっていない。
僕は経済成長を全否定するわけではない。節度のある経済成長はあった方がよいと思っている。
僕たちの「安心」「安全」を脅かすような経済成長には毅然としてNOと意思表示をしたい。
一部の富める者をさらに肥え太らすような経済成長なんてなくてもよい。
経済成長こそが絶対であるという価値観なんてバカげている。