希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕の「バブル体験」を話してみる件

僕が大学を卒業してある都市の公務員になったのは元号が平成に変わったばかりの頃だった。

バブル景気(当時はそのような言葉はなかったが)の真っ只中だった。

僕は職業柄バブルの恩恵は殆ど受けなかったが、日常生活ではバブルの毒気に当てられていたようだ。

 

今では信じられないことだが、当時の僕には彼女がいた。週末になるとデートを楽しんでいた。なまじ仕事がつまらなかったので全精力をデートに注ぎ込んでいたように思う、今となっては。

デートにはお金がかかった。当時はお茶をするにしても、チェーン店など使わず(そんなになかった)そこそこいい値段の喫茶店に行っていた。食事にしても、ファーストフードやファミレスなんて使わなかった。イタリアンやインド料理店などによく行っていた。無国籍料理店なんかもよく利用していた。

呑みに行くときはチェーンの居酒屋なんて眼中になかった。夜景が見える店や海が見える店などシチュエーションを重視していた。

デート費用は男性がもつのは当たり前だった。だから、1回のデートにかかるおカネは1万円以下になることはなかった。

デートにおカネをかけることが当たり前の雰囲気だったのだ。消費を煽られるだけ煽られていたのである。

服にもおカネがかかった。当時はデザイナーズブランド、いわゆるDCブランドが全盛の頃であり、スーツは10万円近くしたし、普段着のパンツやシャツなども1万円超えはザラであった。ユニクロやしまむらやH&M等のファストファッションは皆無に等しかった。僕のお気に入りのブランドはATRIER SUBとCOMME SA DE MODEで(綴りに誤りがあるかも)給料の多くがこれらのブランドに費やされた。

 

バブルの頃の派手な、消費は美徳的な生活様式と、現在の若者に見られる生活様式と比べて、どちらが良いのか僕には分からない。

ただ、バブル当時はおカネがなければ遊べないし、異性にはモテないという風潮が強かったように思う。いや、そのように踊らされていたといった方が正しい。背伸びすることを強いられていたともいえる。

現在の若者のように身の丈にあった楽しみを見つけて、おカネをかけずに遊ぶといった方が健全であるように思う。

 

当時の働き方は、リゲインのCMにもあったように「24時間戦えますか」的なイケイケだった。交際費を存分に使えたし、残業代も出ていた(当時からサービス残業は存在したが)。特に金融機関や不動産関連は羽振りが良かった。

大企業の正社員や公務員になれば一生安泰だという神話が信じられていた。終身雇用は揺るがず、昇給やベースアップも当然にあるものだとされていた。

フリーターは自由な働き方の象徴だと持て囃されて、正社員よりも稼いでいるフリーターなんてザラにいた。派遣社員の時給も現在よりもかなり高い水準にあった。

 

バブル当時は生活がしやすかったかと言うと、一概にしやすかったとは言えない。何より物価が高かった。衣服代や食費は前述のように、ファストファッションやファストフードが今のように多くはなかったので、高くついたし、何より住居費が高かった。不動産価格が高騰し、持ち家やマンションが高額になって手が届きにくかったし、賃貸物件も家賃が上昇し続けていた。

僕は嫌々ながら残業をこなして手取りの給料を増やしても、殆どが家賃と衣服代とデート代に消えていた。

 

結局は僕たちは「貧乏人」だったのだ。

好景気に浮かれて、消費に走り、カツカツの生活を綱渡りで続けていたに過ぎないのだ。

「一億総中流」という幻想に惑わされて、身の丈にあった生活、地に足の着いた生き方を忘れていたのだ。

万が一、バブルの再来となっても、同じ過ちを繰り返すだろう。

 

僕は社会人になった当時を振り返ると、恥ずかしくてならない。周囲の喧騒に流されて、自分を見失っていた。

 

あの頃の自分を反面教師にして、これからは地に足の着いた生き方をしていこうと思っている。

分を弁えて、身の丈に合った生き方を。 

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