政治家でも一個人でも、自分の主張や意見を批判されたときに「対案を出せ」と開き直ることが多い。本来ならば、その意見・主張の内容の妥当性を問われているのだから、批判する相手に対して自分の主張に関してより具体的に論理的に説明し相手に正当性を伝えなければならない。自分と相手との間で丁々発止の意見のやりとりを行って議論を深めて、何らかの着地点を見出すことをまずもってしなければならない。
ところが、議論を深めることを放棄したり、あるいは忌避してすぐに対案を出せと言って相手を切り捨てる輩がいる。このような態度は一見爽快感らしきものを醸し出すらしく時には喝采を浴びたりする。典型的な例として橋下氏や小泉元首相が挙げられる。アベちゃんもこの傾向がある。
政治家、特にトップに立つ者は自身の主張する政策については有権者や野党に対して誠実に伝えなければならない。たとえ意見の相違があるにしても、その相違点を詳らかにして、すりあわせをするような態度が必要である。意見が異なるというだけで、聞く耳を持たないという態度では何も生まれない。
政治の世界だけではなく、ビジネスの領域やその他の社会生活の場でも同様のことが言える。
例えば、会社での会議でも「対案を出せ」という一言で議論を打ち切ってしまえば、会議の意味がなくなってしまう。声の大きい者の意見がまかり通るようになる。
確かにある意見等に対して批判をするだけの態度は無責任に映るし、時として対案を出すことも必要である。
しかし、対案がなければ批判をするな、という物言いには危うさが潜んでいる。
ある意見や主張の内容に誤りや不明瞭な点等があれば、まずは批判することが大切になる。対案は二の次になってもよい。
特に権力がある者が「対案を出せ」という居丈高な態度を取ることが常態化すると、最悪の場合ファシズムに繫がるおそれが出てくる。
健全な議論が阻害されて、権力者の恣意がまかり通る歪んだ社会になってしまう。
「対案を出せ」という開き直りは異論を封殺することに繫がる、とても危険な態度である。
このような態度を取り、このような手法を多用する者は信用できない。
たとえ無責任だといった謗りを受けようとも、僕たちは、特に権力を持つ者に対しては、批判することを辞めてはならない。批判精神を持ち、抵抗する気概を失わないことが何よりも大切なのである。
「対案を出せ」と言いたがる輩を信用してはならない。ただ、異論を封じたいだけの度量に欠けた小物に過ぎないのだ。