僕は歴史ドラマが好きである。
大河ドラマは毎年ほぼ全て観ているし、NHKの時代劇スペシャルも観ている。
しかし、メジャーな時代劇である「水戸黄門」と「暴れん坊将軍」は嫌いであった。一方で「必殺シリーズ」は大好きである。
「水戸黄門」と「暴れん坊将軍」が嫌いな理由は、悪党を絶対的な正義の権力者が裁くというストーリー構成が全く面白くないからである。
徳川御三家の水戸光圀や将軍の徳川吉宗という絶大な権力を有する者が正義の味方ぶること、善良な弱者を助けること、という偽善がどうしても許せないのである。
「悪」に対してお上を頼るというメンタリティが僕には馴染めないのである。
現在でも警察という公権力の民に対する統制は強まっている。大多数の人たちも警察の介入を望んでいる。市井の人たちには対処できない犯罪ついては警察を頼らなければならない。しかし、自分たちの自助努力でなすべき事柄についても警察、つまり公権力を頼るということは、「抵抗」の力を削がれているになる。これはとても危ういことだと僕は思っている。
一方、「必殺シリーズ」が好きな理由は、主人公である仕事人たちが世間から虐げられた人たちであること、カネによって恨みを晴らすというストーリー構成が面白いからである。仕事人には「正義」は無関係であり、稼業としてカネを貰って悪人を始末する点に妙味がある。
多くのシリーズで主人公となった中村主水はしがない同心である。武士とはいえ、不浄役人と言われた最下級の身分であり、しかも奉行所では窓際の「できない」同心として描かれている。ところがいざ仕事人という裏稼業となれば、凄腕の剣客に変身する。他の登場人物にしても、身分制度上は下層に置かれた職人、芸能の民等が仕事人として活躍している。この点がユニークで面白いのである。虐げられた境遇の人がエスタブリッシュメントを打ちのめす。このところが痛快なのである。
水戸黄門のようなエスタブリッシュメントが小悪党を懲らしめても痛快さを感じない。もっと言えば、支配者層が絶対的な善であるというプロパガンダ番組である、という穿った見方をしてしまう。本当の巨悪はエスタブリッシュメントが自分たちの既得権を固守するための様々な行為なのである。支配者層が自身を正当化し、その支配を永続化するためのプロパガンダとしては「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」は最適だ。このような視点を持って、これらのドラマを観ても面白い。
僕は「仕事人シリーズ」のような世界観やメンタリティを大切にしていきたい。
虐げられた境遇であっての抵抗の精神を。