人の善意ほど厄介なものはない。
ある行為を善意であると押し切られると反論のしようがない。思考停止を強いられる。
善意による行いが悪意のそれよりも甚だしく人を害することがあることを忘れてはならない。
初出 2015/1/31
僕たちは無意識のうちに善意に基づく行為は正しいものだと思い込んでいる。自分の善意が相手に通じないとなると、相手を非難しがちである。
こんなに相手のことを思っているのにそれを受け入れないとは何事だと思ってしまうのだ。
これは傲慢で非寛容な態度である。
僕たちが「善意」だと思っていることが実は自分の価値観の押し付けであることに思い至らないことが多い。実は相手が自分の思い通りになることに快感を覚えるための行為を「善意」というヴェールに包んでいるに過ぎないのである。
一見善意による行為を拒絶することは難しい。善意を拒むと自分が何だか悪いことをしたのではないかとの錯覚に陥ってしまう。
善意による行為の殆どが世間の常識に沿ったものであるだけに、一層そのような思いを抱くことになる。
善意に基づく行為のすべてが相手のためになるとはいえない。時として相手を追い詰めたり傷付けたりすることもある。
「そろそろまともに働いた方がいい」という助言は正しいし善意に基づくものだ。しかし、働きたくても働けない人にとってはとてもプレッシャーを感じることになる。まともに働きたくない(会社人間になりたくない)と考えている人にとっても有難迷惑なものである。
「まともに働け」と言う人にとってはこのことは自明のことであり、当然に相手は受け入れるべきだと考える。自分が絶対の正義に立っていると思い込んでいるのだ。
善意に基づく行為はすべて許されるという社会は恐ろしいものとなる。
マジョリティが有する価値観が幅をきかせて、マイノリティを抑圧することにもなりかねない。
この社会は「善意」の押し付けに満ちている、と僕は感じている。また、善意に基づく行為によって悪い結果が生じても、善意が強調され、結果責任の追求が甘くなる。
かつて帝国陸軍が「動機が善であれば結果は問わない」という態度に終始し暴走したように。
このメンタリティは今も変わっていないのではないだろうか。
善意が人を傷付けることがあることをもっと自覚した方がよいのではないだろうか。
善意が社会を誤った方向に走らせる危険性を孕むことにもっと敏感になってもいいのではないだろうか。
僕は自分の「善意」が絶対的に正しいものではないことに常に留意していこうと思っている。
時としてそれが相手を損なうものであることを肝に銘じておこうと思っている。