僕は今までの人生で二度引きこもったことがある。
一度目の引きこもりは小学校5年生の頃に不登校になったときである。両親は当初は軽く考えていてすぐに学校に通うだろうと高をくくっていた。しかし、不登校が長期化するにつれていよいよ心配になり、僕を神経科や催眠療法のもとに連れて行った。この試みは必ずしも成功はしなかったが、結果として僕は学校に通うことができるようになった。僕を救ったのは精神科医や精神療法家ではなく、僕の友人たちだった。
二度目の引きこもりは、社労士事務所を畳み、顧問先の介護施設に厄介になっていた際に心身の不調に陥って、そこを辞めて実家に戻ったときのことだ。その時は約1年間引きこもり生活を送った。そこそこ蓄えがあったので、生活費を母に渡すことができていたので、母は僕を放っておいてくれた。そして、心身ともに回復して職業訓練に通い、福祉介護の職を得て現在に至る。
この僕の二度の引きこもりのときは精神病に罹っていたわけではない。ただ少し疲れていただけである。世間と向き合うエネルギーが少々欠乏した状態だったのだ。尤も大人になってからの引きこもりのときには「うつ状態」であり、医師から投薬治療を受けてはいたが。
確かに引きこもりの人たちの中には精神疾患に罹患している人はいるが、それは一部だと考えられる。多くの人たちは世間のしがらみに絡み取られて、世間や他者との距離感が取り辛くなった状態だと思う。個人の資質の問題もあるが、社会や世間の方にも問題がある。
ある人が引きこもりに陥った原因を個人の資質にのみ求めるのは酷である。また、引きこもりの原因が精神疾患にあると決め付けるのは間違っている。それは社会が絶対に正しいという前提に立っているものであり、引きこもりになった人たちが「異常」であるというレッテルを貼ることになる。
この世知辛い世の中で生きづらさを感じるのは、ある意味「まとも」であるということだ。引きこもりは生き辛さの表現方法のひとつだと考えた方がよい。引きこもりの人たちの多くは普通の人たちなのである。
学校や会社などの組織の論理に馴染めず、同調圧力に抗すると世間からつまはじきにされる。そして行き場をなくして引きこもることになる。
かつては存在した「アジール」があればいいのだが、今の社会には殆どそれはない。せめて世間からちょっとはずれた所に「居場所」があれば、引きこもりの人たちは救われるだろう。
引きこもりになっている人たちに「甘えるな」とか「早く働いて一人前となれ」と己の価値観を押し付けることは間違っている。
少しでも社会や他者との繋がりを創ることが大切なのである。
引きこもりに陥った人たちを異常であると放置したり、あるいは精神疾患だと決め付けて精神科医に丸投げしてはならない。
引きこもりは、この社会・世間に対しての異議申立ての側面があるのだから。