役所や公的施設等の「差別のない社会を」という類の垂れ幕がかかっているのをよく見かける。
大抵の自治体は差別撲滅をスローガンに掲げていることが多い。特に地域内に被差別部落が存在する自治体では、大々的にこの手のスローガンを掲げる傾向にある。
「差別のない社会」というスローガンは間違いなく正しい。
しかし、僕は何か違和感を覚えることがある。
「差別のない社会」とは具体的にはどのような社会なのだろうか。
「差別のない社会」なんて本当に存在するのだろうか。
「差別のない社会」が本当に人々に幸せをもたらすのだろうか。
僕の感じる違和感は一言では説明できない漠然としたものではあるが、常に心の奥底に澱のように存在し続けている。
ある特定の人たちに負のレッテルを貼って差別する行為は許されないことだ。在日コリアン・被差別部落出身者・障害者・ハンセン病患者・ホームレス等に対するいわれのない差別には断固として反対する。僕は人間としての存在価値には差がないと考えているし、人間そのものをランク付けしたり選別することはあってはならないと考えている。
差別することが悪いことだと考えられ始めたのは人権思想や平等思想が生まれた近代以降のことである。つまり、差別は悪というのはイデオロギーのひとつなのである。
近世以前の身分制社会では差別は悪とは考えられていなかったし、そもそも差別という概念も薄かったと考えられる。人々は生まれながらの身分を粛々と受け入れて、身分に応じた人生を全うすることが当たり前だというコンセンサスが存在していた。
人は生まれながらに人権を有し、人間は平等であるという考え方を持つことは人類の進歩だと言える。が、身分制社会下で身分という制約を受けた中で人生を全うした多くの先人達が不幸だったとも思えない。
人権・平等イデオロギーが浸透した社会と身分制社会、どちらが庶民にとって生きやすい社会なのかは判断できない。
差別のない社会が絶対的に優れているという通念に対して、疑いの目を向けることも必要なのではないだろうか。
平等な社会が果たして人々に幸せをもたらすものなのか。
正直言って僕には分からない。
人間は本来平等ではない。
人間は差別をしたがるものである。
これが現実である。
差別があるから、それを乗り越えようとして奮起し成長しようとしてもがくのである。
繰り返して言うが、いわれのない差別は根絶しなければならない。
差別を絶対的な悪だとしてしまったら、人の生活の営みを貧しくしてしまいかねないし、萎縮した社会になってしまう虞がある。
差別が存在しても、それが固定化していなくて流動的な性質があり、人々の意志や行動で乗り越えられるものであったら、差別は必要悪として認められてもいい、と僕は思う。
・・とここまで書いてきたが、僕の考えていることの半分も表現できていない。僕のもつ漠然とした違和感が表現できない。
これは僕の明らかな力不足である。