何か事件や問題が起きるたびに「心の問題」として矮小化する傾向がある。
この社会システムの歪みや矛盾、制度疲労に言及することなく、個人の心の持ちようが大切なとど言うお為ごかしでスルーし、結局は根源的な問題は解決されぬままに放置される。
初出 2014/12/27
僕たちはある問題があるとすぐに個人の「心の問題」として捉え、社会システムの歪みや矛盾から目を背けようとする。
例えばニートや引きこもりの人たちに対して「やる気がない」とか「甘えているだけ」だとして片付けて、個人の責任に収斂させようとする。
生き辛さを抱えている人たちに対して、気の持ちようだと何の解決にもならない心無い言葉を投げかける。
このような態度は即刻改めなければならない。
この社会のありようがおかしなことになっていて、社会の不条理を一身に浴びて立ち尽くしている人たちに、心の問題として自己責任を押し付ける態度は愚かな行為である。
とは言え、生き辛さを抱えている人たちに全く問題がないといえばそれも誤っている。この社会や各々の組織にどうしても馴染めない人もいる。性格的なものもあれば、何らかの発達障害を抱えている人もいる。
ここが難点なのである。
性格を劇的に(社会に馴染むように)変えることは困難であるし、根源的にはたかだか社会に馴染むためだけに個性を殺すような性格改善をする必要があるのか、という疑問が生じる。
発達障害は脳の一部に何らかの異常があり、社会生活を営むために「障害」が生じるもので、その人の意欲や性格とは無関係である。
世の中には一定の割合で社会不適合者が存在する。それらの人たちは「普通」の人(社会にある程度適応している人)から見れば、規格外であることが多い。確かに扱い辛い人もいる。こういった人たちと関わると、ともすれば僕たちは本人の性格や「心の問題」としてその人を理解したつもりになってしまう。時には社会やコミュニティから排除することもある。
そもそも、この社会に適応し一見普通に過ごしている人たちが優れているわけではない。単に多数派を形成しているだけである。たまたま現行の社会システムに順応しているだけなのだ。極言すれば既存の体制にあるいは権力に従順なだけなのかもしれない。
体制・権力あるいは世間の締め付けが強くなれば、それから零れ落ちる人が増える。そして、世間からマイノリティやアウトサイダーが排除されてしまう。それらの人たちの「心の問題」として。それは個人の問題であり、自己責任だと切り捨てられる。
社会を構成する各人の多様性がその社会を発展させる要因であるはずなのに、社会に適応している人たちの間の狭い範囲だけでの多様性だけが認められる寛容さがない社会となっている。
生き辛さを抱えている人たちに対して、すべてが「心の問題」だと切って捨てるのは間違っている。それはタチの悪い自己責任論の亜流である。
彼ら彼女らを社会に包摂することが肝要なのだ。
無理にこの訳の分からない社会に適応させるのではない。
彼ら彼女らの「居場所」を確保するのである。「助け合い」の場だと言ってもよい。
人はひとりでは生きていけない。
人は助け合ってはじめて生きていける弱い存在である。
これらのことを決して忘れてはならない。