当たり前の話だが、どこかの会社に勤めようと思うならば採用試験に受からなければならない。
僕は採用面接というのが大嫌いで転職には全く抵抗はないのだけれども、この面接という茶番に付き合わなければならないのが苦痛なのである。
一度や二度の面接でその人の人となりが分かるわけではない。
極言すれば、面接において会社はその人が使い勝手の良い人か否かを見極めているだけである。いくら能力があっても使いにくいと感じれば採用しない。これは新卒でも転職の際でも同様である。
何社、何十社と採用試験を受けても受からずに落ち込む人がいるが、もっと軽く考えてもよいと思う。所詮会社は使い勝手の良い人を選んでいるだけであり、経営者や上司が使いこなせないような人は自己保身のために排除しているだけなのだ。
時折自分が会社を支えている、自分がいなければ会社が回らないと勘違いしている人を見聞きする。その手の人が経営者や経営幹部だったためしがない。彼らはいちいちそんなことを言わなくても、自分の責務を自覚し全うしている。
勘違いをしているのは大概下っ端か中間管理職レベルの人たちである。そうとでも思い込まないと仕事をやっていられないのかもしれないが、僕はこの手の人たちを見ると悲哀を感じる。ただ会社の都合の良いように使われているだけなのに、ただ使い勝手の良い奴として重宝されているだけなのに、と。もしあんたが辞めてもすぐに後釜が見つかり、会社は何事もなかったように存在し続けるだけなのに、と。
ただ、この「使い勝手の良さ」を利用することが有効な場合もある。実績が無い段階では、使い勝手の良さをアピールすれば仕事を次々と任せてもらえることもある。
僕が社労士を始めたときはコネなしの全くのゼロからのスタートだった。そこで僕はなりふり構わずフットワークの軽さと「何でも屋」的なフィールドの広さを売りにしていた。要するに使い勝手の良い若い社労士というイメージ戦略を採って、そこそこ上手くいった。けれども、結局は「ブランド化」することができずに、薄利多売を続け、経営が立ち行かず事務所を畳むことになってしまった。
「使い勝手の良さ」は毒にも薬にもなる。
僕はできれば「使い勝手の良い」人にはなりたくないと思っている。他者の良いように利用されるのは癪に障るからだ。他者やあるいは社会の役に立ちたいとは常に思ってはいるが、便利使いされるのはどうも腑に落ちない。
少々扱いづらい人間、と評価された方が僕にとってはやりやすい。
使い勝手は良くないけれども、役に立つと思われる人間になりたいと密かに思っている。