僕は以前からある「法則」的なものを見出していた。僕の狭い範囲内での経験則なのか、一般的にいえることなのかは分からない。
それは声がデカい人間ほど無能な人間が多いということだ。
仕事ができない人間に限って声がデカい。
ここでいう「声がデカい」とは押しが強い、独善的という意味ではあるが、実際にそういう人間は声が大きい人が多いような気がする。
この「法則」は僕の独断と偏見によるものなので、統計的な裏付けもなければ、信憑性も?である。僕の感覚としてそう思えてならないのだ。
会議等で威勢の良い意見や強硬的な意見を吐いて、会議等をリードしたがる輩がいる。この手の人間が弁が立つと始末に負えない。またこういった手合いは精神論を殊の外好む傾向にある。
そして、強硬的な意見が採用されて、結果が悪かった場合にはこの手の人間は逃げて責任を負わない。このパターンに思い当たる人は案外と多いのではないだろうか。
戦前、日本が戦争への道を突き進み始めた頃に陸海軍(特に陸軍)で声がデカい人間がのさばり始めた。部長クラス(階級は将軍)を押しのけて左官クラスの人間たちが軍政や軍略を牛耳るようになった。一部の国際派とか英米協調派といった穏健な人たちは、退役させられたり左遷の憂き目にあった。彼らの中には優秀な人たちが多くいた。
歴史にifはないが、声のデカい人たちが権力を握らなかったら、歴史は別の展開を見せていたかもしれない。
タチが悪いのは、声がデカい人たちは殆どが自分のことを優秀で仕事ができると思い込んでいることだ。
僕は本当に優秀な人とは普段は謙虚で、いざという時に的を射たことを簡潔・客観的・冷静に言う人のことだと思っている。
ちなみにこれも僕の独断と偏見である。
僕が信頼に足ると思う人である。
僕の上に立つ人はこうであって欲しいという願望である。
僕がそうでありたい、と思っている理想の人間像でもある。
僕は声がデカい人とは付き合いたくない。
正社員という立場に未練がなくなったのは、この理由によることが大きい。
僕はこの社会が声のデカい人間だらけになることを心底怖れている。
この社会が声のデカい者たちによって支配され統制されることを心底望まない。
僕は囁き声で物事を語る人間であり続けたい。