希望の舎―再生編ー

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人の評価基準は色々とあった方がよい件〈再掲〉

人をひとつの決まったモノサシで測ることは愚かであり、また怖いことである。

ある価値観のみで人を「選別」する行為は許されることではない。

 

初出 2014/12/9

 

僕たちは生まれてから死に至るまで絶え間なく「評価」されて生きていく。

特にこの社会では他者からの評価が重視される。他人の目や世間の目を常に意識しておかなければならない。大半の人たちはそのことを半ば当然のこととして受け止めている。僕のように常に他者からの評価に晒されることを息苦しいと感じている人は少数派である。

 

しかし、評価社会が息苦しいとかイヤだとか言っても、現実は常時他者からの評価に向き合わなければならない。他者からの評価が高くなければ、その人は無能だとレッテルが貼られる。

 

学生時代は学業成績やクラブ活動等の実績で評価され、勤め人になれば仕事ぶりを評価される。

それ以前に、学校を卒業して有名企業の正社員や公務員になれば高評価が与えられ、フリーターになってしまえば評価は低い。ニートなんてもってのほかだ。たとえフリーターニートになった人の人柄が良くても、教養が豊かであっても、必ずしも他者からの高い評価は得られない。

つまり、寄り道をすることなく学校を卒業して就職し、その就職先が安定したとみなされる組織であれば評価が高く社会的信用を得られるというわけである。

僕は思う。

全然面白くないし、あまりにも画一的ではないかと。

人生は山あり谷ありで様々な出来事に遭遇した方が面白い。それらの出来事に出会うたびに、自省し深く思索することで人は成長し、実り豊かな人生になるものだと僕は思っている。

人に対する評価基準が硬直した画一的なものであれば、生き方の幅も狭められてしまい、オーソドックスな生き方の道を外れることへのリスクが高くなってしまう。本当に面白くない。

 

閑話休題

一時期ミスコンに対する批判が噴出した。女性を容貌の美醜だけで判断するのは差別であると。

その結果、多くのミスコンでは容貌だけでなくその人の「人間性」を評価の対象とすることになった。こちらの方がよっぽど恐ろしい。

人の容貌はその人の有する特質や資質の一部に過ぎない。その人の一部分のみを評価するものに過ぎないのだ。また、美醜の判断はそれぞれ好みがあり、主観的で曖昧なものに過ぎない。だから、ミスコンに落選しても、その人の価値を毀損するものではない。しかし、「人間性」までを評価基準にしてしまうと、その人たちの存在価値までをも否定することになりかねない。人間の「選別」になってしまうのだ。

仕事も学業もスポーツも美もすべてがキャラクターの一つに過ぎない。どれ一つとってもそれが絶対的な価値基準ではないし、またそうあってはならない。

 

他人による自分に対する評価などアバウトで主観的なものである。人によっては同一人に対する評価も異なるし、評価の場によっても変わってくる。何より時代や社会情勢等によっても人への評価基準は変化する。あくまで相対的なものなのだ。

 

人の評価基準はバラエティに富んでいた方が健全であるし、絶対に面白い。

人はこうあるべきだ、という評価基準そのものを疑うべきだし、そのような評価基準が社会に根付くことに警戒し抵抗する姿勢を忘れてはならない。

 

  

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