責任感が強い人は信頼される。
責任感がない人は信用されない。
一般論として世間に流れている責任感についての言説である。
僕も就職試験の際には判を押したように自己PRとして責任感の強さを挙げていた。
また、仕事でも仕事以外の活動においても「責任感」が強い人として振舞っていた。
僕は自分が責任感の強い人間だと錯覚していた。ただ単に他者からよく見られたいと思い、そのように演じていたに過ぎない。
責任感の強さをアピールしていれば「できる奴」とか「信用できる奴」との評価を受けやすかっただけのことである。
責任感の強い人は経営者等の支配者層からみれば誠に都合の良い操りやすい人種である。
与えられた仕事を完璧にこなそうとする。時には私生活を犠牲にしてまでも目的を達成しようとする。絵に描いたような模範的な労働者像である。
エスタブリッシュメントにとっては責任感の強い勤勉な労働者が量産されれば、体制は維持されるし、己の既得権を手にし続けることができる。
過労死や過労自殺をした人たちのケースを辿ってみると、過剰な責任感の強さが目に付く。自分の健康や生命を削っても、自分の職務を全うしようとして過労死に至った事例が多い。
僕たちは学生の時から責任感を強く持てと教えられている。クラスで何らかの役を持たされて、その役を完璧に務めることが求められる。
社会に出てからもそれは増幅され、場合によっては自分を殺し、心身を削ってまでも役割を果たすように強いられている。
クラスでの役なんて果たさなくても学校・クラスは滞りなく運営される。
会社での仕事においても少々さぼっても会社が潰れることなんて滅多にない。ちょっだけ仕事がスムーズに進まない程度のものである。
責任感の強さを殊更に強調する組織あるいは社会は居心地の悪いものとなる。少なくとも僕の場合はそうである。
無責任なのは考えものであるが、過度に責任感を求められる組織や社会は息苦しい。
自分の仕事に責任を持つのは当然のことである。
人として求められる最低限のものである。
しかしながら、自分の健康や生命、そこまで至らなくても自分の私生活や楽しみを犠牲にしてまでも責任を全うすべき価値が仕事にあるとは思えない。
僕たちは「ほどほどの責任感」を持ち、それを全うするだけで十分である。
責任感によって自分の日々の生活が壊されるようなことがあってはならない。
時と場合によっては無責任と謗られようと、自分の生活・価値観・信条等を優先すべきである。