社会的弱者は経済的に搾取され、抑圧されているだけでなく、自分たちが考えていることや要望などを主張する場が殆ど与えられていない。
選挙においても少数者の声はかき消される。
時々、マイノリティが団結・連帯し社会活動を行うことがある。反原発・反貧困・性的マイノリティなどの活動が代表例だが、これらの「市民運動」はなかなか一般には浸透しない。
僕は以前のエントリで、特定のイデオロギーに染まっている市民運動は庶民のリアリズムの前には無力だと言うことを書いた。やはり何か胡散臭さを感じてしまう。
しかし、弱者が自分たちの力で連帯し、声をあげることには大いに賛同する。生存を脅かされているような状況で声を上げ、現状を変えていく「生きるための闘争・連帯」は絶対に必要だと思う。当事者が立ち上がらなければ、現状を打破することなんてできないからだ。
弱者が団結し、社会運動を起こすことをエスタブリッシュメントや社会的強者は極度に嫌う。さほど大規模でもないデモに多くの警察が動員され、物々しく警戒するのはよく見る光景だ。
弱者が目覚めると、力を持つと、強者は自分達の既得権や甘い汁が吸える立場が脅かされると警戒しているのである。
現行の体制はエスタブリッシュメントや強者にとってまことに都合の良いものだから、今の体制が揺らぐことは排除しなければならないのである。
そのために、マスコミ(マスゴミ)を総動員して力を持ちそうな社会運動にレッテルを貼ろうとする。
過激派が裏で糸を引いている。
特定の政党が影で操っている。
特定のイデオロギーに染まっている。
などとでっち上げて、エスタブリッシュメントとメディアは結託して、社会運動を抑圧する。
もはやマスゴミは特権階級(正社員に限ってだが)であり、権力の犬に成り下がっている。
弱者が連帯し団結して社会運動を行うことは、強者と渡り合う最も有効な手段である。また、弱者の社会運動は、弱者たちの「自助努力」であるし、共助でもある。
ところで、社会的弱者というと生活困窮者や障害者・病気を持つ人たちなどに限定されがちだが、そうではない。政財官のエスタブリッシュメントやそれに連なる者たち(例えば上部労働組合の幹部である労働貴族)以外は弱者なのである。エリートビジネスマンといえども、単なる労働者に過ぎない。大企業に搾取されている中小零細企業の経営者も弱者だと言えるかもしれない。
現在は「強者の理論」がまかり通っている社会である。僕たち弱者は、何もしなければその強者の理論に屈してしまう状況にある。
弱者は弱者であることを、ひとりひとりが自覚しなければならないと思う。
強者が牙を剥いて、本性を現して、僕たちの生存を脅かしそうになった時には、まずは個人が戦う姿勢を示し、そしてイデオロギーを超えて連帯し、団結して強者に立ち向かわなければならない。
いまどき連帯なんてダサいという風潮や、社会運動には怪しげな者達が跋扈しているという噂に騙されてはならない。
また、仮に「怪しげな者」がいたとしても、その怪しげな者は強者にとって不都合な人たちに過ぎない。
強者や強者の取り巻きがなす、弱者叩きやレッテル貼りに惑わされてはならない。
弱者がものを言う、主張することができる社会こそが健全で生きやすい社会である。