僕たちは社会の一員として生きている。
国家の成員である国民として。
市民社会の成員である市民として。
会社あるいは学校の成員である社員・学生として。
僕たちは組織の一員として、人と関わりあいながら自分の役割を果たしている。
このとき、自分は組織の一部に過ぎず、組織に埋没してしまうという恐怖に似た思いをすることも多いだろう。自分は部品のようなもので、すぐに他と取替えが利く存在であると考えが浮かべば自身の存在意義を疑うことにもなる。
自己啓発系の著書・講演等で「かけがえのない存在」になろう、あるいは「あなたはかけがえのない存在」である、という言説がよくなされている。
この「かけがえのない存在」というのは非常に耳障りの良い言葉である。
もしも自分が「かけがえのない存在」と思えるならば、生きていく張りもでるし、モチベーションも上がり自分の存在を肯定できる。
恋愛にその効用が最も表れる。
自分にとっては恋愛の相手がかけがえのない存在だと感じられ、相手にとっても自分がかけがえのない存在だと感じられるから、気分が高揚するのだ。
まさに恋愛の持つ魔力である。
それがゆえに失恋したときのショックもまたとても大きくなる。自分の存在を全否定されたような感覚に陥るのだ。
僕たちは「かけがえのない存在」になることを目指すべきなのだろうか。
「かけがえのない存在」となることで幸せになれるのだろうか。
確かに自分がかけがえのない存在であると思えれば、その間は仕事や私生活・学業等のモチベーションが上がり、気分はハイになる。結果や成果が上がることもあるかもしれない。
しかしながらである。
僕たちはやはり他者とすぐに取替えが利く存在に過ぎないのである。
厳然とした現実である。
いくら会社に尽くして貢献しても、リストラされるときはリストラされてしまう(あるいは栄転や昇進しなかったりする)。自分の就いていた椅子に他者が座り、会社は以前と同じように回っていく。
どれほど恋人に尽くしても、ふられるときはふられてしまうのである。その元恋人は他のパートナーを見つけて、何事もなかったかのように日々を過ごしていく。
僕たちは「かけがえのない存在」という魔力に惑わされているのかもしれない。
自分がちっぽけな存在であり、いくらでも取替えの利く存在であることに不安やおそれを抱きすぎているのかもしれない。
しかし、悲観することはない。
例えば映画やドラマには名脇役がいる。
脇役陣は取替えが利くかも知れないが、名脇役には「味」がある。必ずしもその名脇役の俳優でなければならないというわけではないが、その名脇役だからこそのプラス・ワンがある。
このプラス・ワンを出せる人間となるだけで充分なのではないか、と僕は思っている。