近年の日本経済の停滞や政治不信の元凶は、自己保身に走る政治家や官僚、経営者たちであるという言説をよく目にする。
確かに自己保身に汲汲としている人たちばかりで変革を怖れていれば、イノベーションは生まれないし、社会は発展しない。個々の組織の成長も阻害されるだろう。
しかし、自己保身を図る行動はそんなに否定されるべきものだろうか。
もし僕が会社の管理職になり、妻子がいて自宅のローンが残っている状況ならば、まずは自分の身の安泰を図る行動に出るだろう。今の収入や生活を手放したくないと考えるに違いない。部下の手柄を横取りするかもしれないし、上司に媚び諂うかもしれない。自分が手にした僅かばかりの「権力」に執着し、それを手放したくない。
僕は強い人間ではないし、特別な才能も持っていない。
高い確率で自己保身に走るだろう。
自己保身の行動に出るのは、いわゆる普通の人たちである。好き好んで自己保身に走るのではないと思う。生活を守るため、組織においての立場を守るための自己防衛の手段なのだ。
では、なぜ多くの人たち自己保身に走るのだろうか。
それは、チャレンジすることが評価されない風潮が存在するからだろう。日本の評価方法は(学校であれ会社であれ)減点法を用いられる場合が多い。したがって、失敗が責められ、失敗することを極端に避ける傾向にある。そうすれば、現状維持で良しとすることになってしまう。
また、会社・組織にしがみ付かざるを得ない状況にあることも見逃せない。もし、大失敗して組織から離れることになっても、受け皿があれば挑戦する気にもなるだろう。転職・キャリアチェンジがしやすい環境であれば、意に反した自己保身も必要なくなる。
チャレンジすることが高く評価され、たとえその挑戦が失敗に終わったとしても、敗者のレッテルを貼ることなく、復活の道が残されていれば、自己保身に走る必要性も低くなる。
自己保身にばかり考えが及んでいた人たちも、何かのきっかけで弾けることもある。
リストラの対象とされたサラリーマンが、それまでの自分の生き方を見つめ直し、心機一転で新たな何かに挑戦する、平凡な公務員生活を送っていた人が貧困の現場に直面し、使命感が芽生えるなど、ごく普通の人たちにも自己保身の世界から脱するきっかけがある。
自己保身という縛りから自由になった人たちが、地道に変革の礎を築くようになれば、まだまだ世の中捨てたものではない。