常識を疑わずに大過なく生きていくことは安定をもたらすかもしれないが、僕としてはなんとなく面白くなく感じる。
多少はレールから外れても、楽しい人生を送ることができれば万々歳である。
初出 2014/10/25
人生は楽しむためにある。
これは僕のモットーである。
無理して世間の常識に付き合う必要はないと思っている。ここで言う世間の常識とは、苦しいことを耐え忍び、我慢が美徳という「人生道」を全うすることが人として正しい生き方だという考え方である。
確かに人生においては辛いことも悲しいこともある。自分の思い通りにいかないことの方が圧倒的に多い。
僕が人生を楽しむものだ、と言っているのは何も辛いことや苦しいことから逃げることを意味しない。辛さや苦しみをも楽しみに変えるようなメンタリティを持つことを意味するのだ。そして嬉しいことがあれば素直に喜ぶ。
仮に10の悲しみがあって1の喜びがあるとすれば、そのことに感謝して、1の喜びを十分に味わうことで人生を堪能する。
己の分を弁えて、自分の資質を超えるような高望みをしない。
人生の行方は「運」に左右されることを受け入れる。ただし、すべてを「運」のせいにはしない。誰にでも(等しくないにせよ)「運」があり、それを引き寄せるために自助努力を怠らないようにする。
自分が取るに足りない存在であることを自覚しつつも、自分に誇りを持ち続ける。
まあ、どれもこれも夢のない話となってしまうが、楽しく人生を過ごすためにはリアリストでなければならないと僕は思っている。
僕は世間の常識というものを無視して勝手気ままに生きることはできない。アウトロー的な生き方に憧れは抱いているが、そんな勇気はない。
世間に縦横無尽に張り巡らされているしがらみの網の中をぬって、ほんのちょっとした隙間を見つけてそこに自分の居場所を確保するような生き方をするしかない。
普通に働けとか結婚しろとかいうプレッシャーをかわしながら、飄々と生きていく。
「真っ当な大人」の意味を自分勝手に拡大解釈して、社会の片隅でひっそりと棲息しさえすればいいと自己正当化する。
僕ひとりがこのような生き方をしても、社会には何の影響も与えない。社会に役立つことをするという大風呂敷を広げるようなことは僕にはできない。こんな僕だってちょっとだけ社会の役に立っているはずだ。そう思いたい。
楽しく生きていくためには、もしかするといくつかのモノを犠牲にしなければならないのかもしれない。失うものは少なくない。社会的信用や社会的な地位や世間での評判などである。それらを追い求める生き方を決して否定するわけではない。ただ、僕には無縁なだけだ。
僕は常識に従いながらも、「非常識」な部分を大切にしたい。
楽しく生きていくために。