学歴社会批判や公務員に対するバッシングは相変わらず続いている。
この両者ともに居酒屋談義で済んでいるうちは害がない。
おそらく多くの人は学歴差別を憤ったり、公務員をバッシングして日頃の鬱憤を晴らしているだけなのだ。
学歴社会を批判する人は自分の子どもに「有名大学なんて行くな」と言えるだろうか。
公務員に敵意を燃やしている人は自分の子どもに「公務員なんかに絶対になるな」と言い切れるだろうか。
安直な学歴社会批判や公務員バッシングをしている人も、いざ自分(その子ども)のことになると手のひらを返すことになる。
自分の子どもを私学の中高一貫校に入れるのに熱を上げたりしているのではないだろうか。
子どもの就職に関して公務員を勧めたりしているのではないだろうか。
仮に子どもが有名大学に合格したり、公務員試験に合格したりすれば、周囲にそのことを自慢している光景が眼に浮かぶ。
このダブルスタンダード的な態度を批判することは容易い。誰もが我が身や身内はかわいい。
他人がいい思いをしているのは許せないが、自分はいい思いをしたい。これは人間の業なのだ。
一流と言われる大学に入るのも、公務員になるのも原則としては試験に合格する必要がある。これが家柄や資産等によって合否が決まるのならば、あるいは世襲ならば大いに問題がある。しかし、両者共にある程度の受験資格はあるが公正に門戸は開かれている。実力や能力、勉強量が物を言う世界である。
あえてゴーマンな言い方をすれば、有名大学に入れなかったのも公務員になれなかったのも、実力(学力)や努力が足りなかっただけなのである。
もちろん一流大学に入ったり公務員になることだけがより良い人生を送るための条件ではない。公務員なんて数多ある仕事のうちのひとつに過ぎない。有名大学を卒業したからといって、良い人生を送れるわけではない。
おそらく、大半の人たちは学歴社会批判や公務員バッシングを本気でやってはいない。
一見利権を享受していると見える高学歴者や公務員に対する嫉妬や憧れが綯い交ぜになって、バッシングせずにはいられないのである。
確かな信条や信念があってのものではない。
高学歴者が集う有名企業や公務員の不祥事が起きるとそれらを叩くのはある意味当たり前のことだし、健全なことである。
学歴社会や公務員をバッシングする人たちはその考えを徹底していない。
何か事が起こるとか、自分に不利益がもたらされたときに付和雷同する。
本気で学歴社会を壊そうとか、官僚制を破壊しようなどとは考えていない。
適度な学歴社会や公務員へのバッシングは不満が鬱積した庶民のガス抜きなのである。
ただし、そのことで「巨悪」から眼を逸らされてはならない。