僕たちは周囲の雰囲気や「空気」についつい流されてしまう。自分の思っていることを素直に口に出すことや自分の思いのままに行動を起こすことは難しい。周囲との軋轢を避け、周囲と調和するような言動をしがちとなる。
自分の思うがままに行動すれば「わがまま」だとか「空気の読めない奴」とみなされ、変人扱いされたり、時には村八分の憂き目に遭う。
確かに社会の中で生きていくためには協調性は必要となる。特に会社に勤めるサラリーマンにとっては協調性は必須である。
自分が正しいと思っていることが必ずしも組織の正しさとイコールではないことはよくあることだ。自分の信念や信条が世間の常識と反目しあうこともある。
僕は仕事が人生の大半を占めるという考え方に違和感を持っている。労働至上主義や勤勉が美徳という考え方も同様である。仕事なんて人生のほんの一部に過ぎないし、仕事に人生を捧げるなんて考えられないし、そんなことをしたくもない。
このような価値観を持つ者はこの社会のマイノリティに属する。この類のことを口に出すのは自殺行為だ。
僕の考え方が絶対的に正しいとはいえないが、僕の考え方を全否定し圧殺しようとするならば、僕は断固として戦う意志を持っている。まあ、戦うといっても世間の片隅でひっそりと生きて、マジョリティには迎合しない、というだけのものではあるけれど。
「自分というものをしっかり持て」という物言いがよくなされる。しかし、実際は自分をしっかり確立すると不都合なことが多々起きる。
会社や役所等の組織では変に「自分」なんかを持ってもらうよりも、組織の意のままに動く人間の方が使い勝手が良い。自己の確立なんて掛け声倒れのスローガンに過ぎないのだ。多数派の意見に迎合し、少数派を排除する社会をエスタブリッシュメントは望んでいる。
僕は弱い人間である。
ついつい周囲の空気に流されてしまう。
人に嫌われたくないとという思いを常に持っている。
変人扱いもされたくない。
真っ当な人間だと思われたい。
でも、自分は自分である、ということを強く意識していたい。
世捨て人にでもならない限り、「世間」と折り合いをつけて生きていかなければならない。
なかなかに面倒なことである。
けれども、この面倒を厭わず、僕は僕であり続けたい。
「自分は自分である」という思いを強く持ち続けながら。