仕事の出来ない人だというレッテルは貼られたくない。これは働く人たちにとって当然の思いである。
しかし、「仕事ができる」という判断基準は客観的で整合性があるのか、僕は疑問を持っている。
初出 2014/8/2
どの会社・組織にも仕事ができる人とできない人がいる。正確には仕事ができると周囲から思われている人とそうでない人がいるということだ。
どのような基準で「仕事ができる」と判断しているのかは実は曖昧なものだったりする。
一番分かりやすいのは成果・実績を挙げているか否かという基準である。ただ、必ずしも成果を挙げている人のすべてが仕事ができる人とみなされるわけではない。成果が数字に表れない職種もある。単に職務遂行能力が高いというだけでは仕事ができる人とは見られない。
会社においての評価はその人が担当している職務でのパフォーマンスだけではなくプラスαの部分が重要になってくる。会社特有のしきたり・慣例という社内ルールを習得していることや根回しの巧拙等の「社内政治」力とも呼べる能力の有無が問われる。それと上司や同僚との関係性も重要視されるし、やる気や意欲を表に出していることも評価基準になる。これらすべての条件を兼ね備えることによって仕事ができる人という評価を得ることになる。ある職務(営業、財務・経理、人事、マーケティング等)に秀でているだけでは仕事ができるとみなされないのである。
だから、ある会社で仕事ができる人という評価を得ていても、その評価はその会社のみで通用するものであって、汎用性があるわけではない。
また、いわゆる「社内政治」力というものは、曖昧模糊としていて明確な判断基準があるわけでもない。
以前のエントリーでも少し触れたが、僕が公務員時代に味わった理不尽なことがある。
公務員になって2つめの職場でのことだ。その職場は残業が多いことで有名なところだった。僕は前任者が月に100時間前後の残業をしてこなしている仕事を与えられた。僕は残業が大嫌いである。そこで何とか業務を効率化して残業を減らそうと試みた。そして、半年後に月に10~20時間程度の残業で業務をこなせるようになった。しかし、直属の上司からは全く評価されずに逆に叱責される始末となった。労働時間は長ければ長いほど良いという価値観をその上司は持っていたのだろう。いや、組織全体をその価値観が覆っていたと考えるべきかもしれない。このような組織では僕は「仕事のできない」人と評価されることになる。
ある会社(組織)での評価は、その会社のみでのルールや価値観に拠ったものに過ぎない。
仕事ができる人=人として優れているわけではない。
逆に仕事ができない人と評価されても、所詮はその組織のローカルルールに則ったものに過ぎない。
仕事ができる、できないはその人の価値の優劣を決定付けるものではない。
仕事ができる人と評価されるに越したことはないが、その判断基準は絶対的なものではなく、その評価に萎縮してはならないと思う。会社や部署が変わると評価が変わることもよくあることだ。
仕事ができる、できないはあくまでその人の一部を評価しただけのものであって、その人の人間的な価値を決めるものではない。
会社での評価なんて、所詮は人生の一部であり一面に過ぎないと割り切ることも時には必要である。
仕事ができる人と見られなくても、人生を楽しく過ごす方法なんて幾らでもある。
「仕事ができる人」幻想に捉われると、視野が狭くなり、本当に大切なものを見失ってしまうおそれがある。
仕事なんてそこそこできればいい。
人生を楽しむことが一番大切だと僕は思う。