よく「仕事を選ぶな」「働けるだけでもありがたいと思え」という言説がなされる。
これは非合理で無責任な物言いである。
少しでも良い労働条件の職場を求める行為は至極真っ当なものである。
初出2014/7/17
就活がうまくいかない学生に対して、仕事を選んでいるからだという批判をする輩がいる。
再就職活動がうまくいかず失業期間が長引いている中高年の人たちに、仕事を選んでいる場合かと無用なプレッシャーをかける輩もいる。
生活保護を受給していて自立するために職探しをしても見つからない人たちに、仕事を選んでいる立場かと心ない中傷をするバカがいる。
これらのバカな輩は仕事を選ぶことが贅沢なことであり、身の程をわきまえろとでも言いたいのだろうか。
上述の人たちは何も好待遇の仕事を選り好みしているわけではない。普通の待遇の仕事に就きたいと、人としてごく当たり前の望みを持っているだけなのだ。それを贅沢だの選り好みするななどという資格のある人はどこにもいない。
身分制社会では仕事を選ぶことはできない。
しかし、現在は職業選択の自由が権利として認められている社会である。人は当然のこととして自分の就きたい会社や職業を選ぶことができる。自分の希望がすべて適う仕事に就くことは現実問題として難しいが、自分が納得できる待遇の職場を選ぶことはできる。
仕事を選ぶな、と就職活動中の人や生活保護を受けている人たちに言うことはそれらの人たちを人間扱いしていないことに等しい。自分たちよりも下に見ているのだ。
また、仕事を選ばずにただ働けという言い草は労働至上主義に毒されていることでもある。エゴ剝き出しの経営者・会社に利することにもなる。
人はより良い生活を営む目的で労働という手段を用いるに過ぎない。しかしながら、働く場が本人の意に反したような劣悪なものであれば、より良い生活を送ることはできない。
超長時間労働・低賃金の仕事でも働けるだけでありがたいと思え、という思考は狂っているとしか言いようがない。
劣悪な待遇で働くということは、人の精神的・肉体的活動に悪い作用をもたらすことになる。心身を蝕み、最悪の場合死に至ることもある。過労死や過労自殺など、仕事をしているだけで殺されるなんて異常なことである。
この社会では自分の身を守るためにも、仕事を選ばなければならないという側面をもつ。強欲な経営者の犠牲にならないためにも。
ただ、現実問題として仕事の選択肢がないかごく限られた人たちも多く存在するのは確かなことである。この問題を根本的に解決する手段が僕には正直分からない。
一つの解決法としてやはり公共職業訓練を質量ともに拡充することだろう。需要のある職種や将来性のある職種の受講科目を増やし(今は介護とITに偏っている)、訓練期間中の生活保障制度をさらに整備することが重要である。また、訓練を修了した人たちを雇うインセンティヴを会社に与える施策も必要である。さらにはある訓練を受けていて自分には向かないと判断すればすぐに他の訓練科目に移れるような制度の柔軟性も必要となる。
公共職業訓練制度ですべてが解決するわけではないが、かなりの数の人たちが救われると思う。
繰り返すが、仕事を選ぶことは当たり前のことである。
この当たり前のことができる社会が生きやすい社会である。
仕事を選ぶというごく当たり前のことが非難される社会は異常で不寛容な社会であることに思い至るべきだと僕は思う。