世の中は立派な、真っ当な人たちばかりではない。
僕みたいな落ちこぼれのダメ人間もいる。
ダメ人間だからといって不幸になればいいというものではない。
初出 2014/2/25
僕はダメ人間である。
常に働きたくないと思っている。
正社員として働いても長続きしない。
不登校の経験があり、学校(特に小中学校)が嫌いだった。
ちょっとだけ本音を言っておこう。
僕は骨の髄までダメ人間ではないと思っている。
会社至上主義・学校至上主義のもとでの価値観においてのダメ人間なのである。限定的なダメ人間であるといえる。
公務員や正社員のときの上司や同僚の評価は決して低くなかった(はずである)。
専門学校で講師をしているときも学生からのアンケート評価では上位だった。
社労士時代の顧客や関係者からの信頼も厚かった(と思っている)。
要するに中途半端なのだ。
その気になれば、なんとかこなせる。
これがいけない。
根が怠け者のダメ人間なくせに、「全うな人間」として振舞うことができてしまうのだ。
そのため悲劇(?)が起きる。
ある程度の期間、全うな人間として振舞っていると精神に変調を来たすのだ。僕の場合はうつになってしまう。仕事の形態や内容に関係なく、他者からの評価を得て、責任を負うことになると息苦しくなってしまう。
人は単なる逃避だと僕のことを批判するだろう。
しかし、僕の人間としての本質は変えられない。
先日、ブックオフで『だめ連宣言!』を購入し、今読んでいる。10数年前に話題になった「だめ連」の人たちの集大成的な著書である。全てに共感するわけではないが、僕の今の生き方に通ずる部分も多くある。
「だめ連」の活動が活発だった1990年後半から2000年初頭の頃は、僕は全うに生きようともがいていた時期だった。だから当時だめ連の活動やこの著書に目が向かなかったのだ。
僕は40歳を過ぎてようやく自分の本性に気付くことができた。20代から30代の頃は仕事をバリバリこなし、社会的な評価を得ることが当然と考え、そのように振舞っていた。またそうでない生き方は負け犬であり、社会のゴミだとすら思っていた。競争社会で勝ち残ることこそが至上の価値だと考えていた。
僕はどうかしていたのだ。
僕の本質は、学校組織に馴染めず不登校をした小学校5年生のときの僕なのである。
それを忘れていたのだ。
いや、その事実に目を背けていた、という方が正しい。
僕はダメ人間なりに楽しく生きようと思っている。
競争社会を否定するものではないが、僕は一歩距離を置いた生き方をしようと思っている。
ダメ人間にとっては今は生きづらい社会であるのが現実である。
でも、ダメ人間でも幸福を追求することはできるはずだ、と僕は思っている。