希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

死に対する恐怖について考えてみる件

僕たちは必ずいつか死ぬことになる。

こればかりはいくら財産があっても社会的地位が高くても権力を持っていても、どうにもならない。

命はひとつしかないこと、必ず死ぬことに関しては人は完全に平等である。

 

人は程度の差はあるにしても死への恐怖心を持っている。多くの宗教はこの死への恐怖心をいかにして克服するかが重要な教義となっている。狂信的な宗教となると、教義に殉じて命を捧げることが最大の美徳とされていたりもする。

 

僕たちはなぜ死ぬことが怖いのだろうか。

誰にでも等しく訪れる死に対して、なぜこれほどまでに恐怖心を抱き、時には忌避するのだろうか。

 

僕は以前のエントリーで不登校の経験があると書いた。その時に心身に異常を来たしていたのだ。今で言う拒食症的な症状が出て、体重が10kg以上も減った。また夜に眠ることが怖くなり、不眠症にもなった。もし眠ってしまったら目覚めることができずに死んでしまうのではないかという妄想に捉われたのだ。死んでしまうことがとてつもなく恐ろしく感じていた。

幼かった僕には難しいことは分からなかったが、自分がこの世から消えてなくなることに耐えられなかったのである。

自分がこの世に存在しなくなるということは、いわば世界の終わりを意味することになる。

自分が死んでしまうということは、世界(あるいは宇宙)が存在しないことになる。自分の「意識」があることによって、この世の存在を感じられるからだ。

もちろん、このような考え方は独りよがりの稚拙な主観論であり、僕一人がいなくなっても全く変わることもなく世界は存在し続ける。あるいはこの厳然たる事実、自分がいかにちっぽけな存在であるかを思い知ることにも耐えられないのかもしれない。

 

僕は今も変わらずに死に対する恐怖を心に抱えながら生きている。

死ぬときに感じる肉体的苦痛が怖いのか、僕の死によって僕のいない世界が続いていくことに耐えられないのか、それは分からない。

 

僕はこの歳になって、僕がこの世からいなくなっても、世界は全く変わらずに存在し続けるという事実を受け入れようと思っている。

同時に、僕が生きてきた証を少しでもこの世界に刻み込みたいとも思っている。たとえ僕の不在がこの世界になんらの影響を与えなくても。

 

死への恐怖は、生きることへの執着にもなる。

僕はまだまだ生きることに執着し続ける。