目的地に向かって脇目もふらずに突き進む、という態度が推奨されている。社会に出ても学校教育の場においても。
効率性重視のこの考え方を僕は好まない。
初出2019/3/13
僕が小学生あるいは中学生のころ、学校からの帰路に道草を食うことがその頃の楽しみだった。友達と連れ立って通常の帰り道から外れたり、駄菓子屋や本屋に寄ったりすることがささやかな楽しみだったのだ。友だちと道草を食う行為の共犯関係になることでより親密になることができたのである。
今の子供たちはこの道草の楽しみを味わっているのだろうか。
通学路に見守りのボランティアの人たちが立っていたり、集団登下校するところが多くなっている昨今の状況を鑑みると、どうやら道草をする余地が狭まっているようだ。
社会に出て、働き始めると道草を食ったり寄り道することを自由にできるようになる。
しかしながら、その頃には道草を食うことによって生まれる背徳感のような感覚が薄れてしまい、楽しさが半減してしまうのである。
それが「大人」になるということなのかもしれない。
人生においても道草や寄り道は必要なものなのではないか、と僕は思う。
確かにレールから外れずに順風満帆に人生を渡っていくのも悪くはない。
僕もできれば寄り道をしないでまっすぐに歩いていたかった。
寄り道をすることで違った風景が見えてくる、と強がりは言ってみるもののロスを生じてしまい、まわり道をしてしまったことは疑いようのない事実である。
でも、あえて強がりを言いたい。
寄り道や道草を食うことによって、得られたものは少なくない。
画一的な度量衡で人を判断してはならないということを知った。
世の中には本当に様々な生き方をしている人たちがいて、それらの人たちは自分なりに懸命に生き、生活を営んでいることを知ることができた。
そして、「正しい」生き方なんて実はないんだということを知ることができたのがなにより大きい。
世の中には弱い立場に立たされている人たちが数多いる。
そういった人たちはすべてが自身の責任ではなく、多くの部分は社会システムの欠陥や歪により生み出されているということを知った。
また、多数派に属する人たちの発する考えが常に正しいわけではないということも知ることができた。
マイノリティの側に身を置いて生きていくことも悪くはないという思いに至った。
僕はレールから外れて、さんざん寄り道をしてきた。
まわり道をしすぎて、目の前には路地のような道ばかりがある。
その入り組んだ「路地」に足を踏み入れることが楽しみとなっている。
どんな風景が僕を待ち受けているのか。
それを思うだけでワクワクして面白い。