僕はひそかに「隠棲」に憧れている。
この俗世を捨てて、栄達や出世に背を向けつつも世間をシビアに見つめ続けている。
達観しているようで時には俗物性を出す。俗世から離れていても何らかの形で人々と関わり合いを持ち続ける。
そんな生き方がしてみたいと夢想する。
別に僕はこの世を儚んでいるわけではない。
世の中や人々に絶望しているわけでもない。いやむしろ希望を捨ててはいない。
完全に娑婆から抜け出す勇気がないから、自分の都合の良い程度に娑婆と距離を取って、娑婆で生きていきたい。
僕はエゴイストなのかもしれない。
あるいは社会不適合者かもしれないのに、それを認めることが嫌で何だかんだと理屈をつけて世間にしがみついていたいだけなのかもしれない。
ほんの片隅でもいいから世間に自分の身の置き所を確保して置きたいというエゴを捨てきれない。
僕は自分に対する肯定感を強く持っている。
確かに役立たずかもしれないが、僕の居場所が世間のどこかにあるはずだとの確信を持っている。
僕は生きていてもいい存在だと思っている。
しかし、世間の煩わしいしがらみからは抜け出したい、自由に生きたいと強く願っている。
他者や世間から認められなくてもいい。いや、これは言い過ぎだ。僕が好きな人たちからだけは認められたい。世間はどうでもいい。
自分の好きなように生きて、ひとりこの世から去っていきたい。
この僕のささやかな願いは単なるエゴなのだろうか。
このような僕の願望を口に出すと、大抵は「逃げているだけ」だとか「甘えているだけ」といった類のありがたい助言をもらうことになる。
多くの人たちは「あるべき生き方」が存在すると思い込んでいて、それらから外れた生き方や価値観を排除する。
誰でも自分の好きなように生きていけばいいはずなのに、自分で自分の首を絞めている。世間が許してくれないと思い込んでいる。
「あるべき生き方」なんて存在しない。それがあるはずだとの幻想に捉われているだけだ。
国家や会社に尽くす生き方が善とされる社会が狂っているのだ。ありもしないモノを必死に掴もうとしている出来の悪いコントみたいなものである。
僕は半分だけ遁世したい。
世間のしがらみから自由になるのはなかなかに困難なことは分かっているけれども、これからもずっとしがらみから抜け出すようにもがき続けたい。