サラリーマンとして働くことだけが真っ当な生き方ではない。
サラリーマンができないからと言って、その人が無能なわけではない。
当たり前のことを書いているが、世間ではこの当たり前が通じないときがある。
僕がフリーランスの講師業をしていたときや社労士事務所を自営していたとき、真っ当ではない人扱いをされたことが多々ある。
まず、賃貸住宅を借りることが困難であった(現在は状況が変わっていると思う)。保証人が2人必要と言われたり、敷金が割高になったりした。
それとクレジットカードの審査になかなか通らなかった。
ガールフレンドの親御さんからはあまり歓迎されなかったこともある。
僕は思った。
世間から真っ当とされる生き方を選ばないと、こんなにも不当な扱いを受けるのかと。
僕はもうサラリーマンになることはできない。
これはこれで仕方がないと思っている。
こんなにとうが立った奴を雇うような慈悲にあふれた会社があるとは思えない。
僕は僕で毎日通勤電車に揺られ、同じ時間に同じ場所に通うというライフスタイルを受け入れることなんてできない。
真っ当に生きることは諦めて、世間の片隅でひっそりと自分なりのナリワイを見つけて生き延びるほか手立てはない。
僕はこのブログで幾たびもサラリーマン的生き方をディスったりしているが、それを否定しているわけではない。
名もなきサラリーマンたちがこの世の中を下支えし、成り立たせているのだ。
ただ、サラリーマン的価値観にどっぷりと浸かると、奴隷根性が植え付けられ、思考停止状態に陥る危険性があると言いたいだけなのである。
それと、サラリーマン的な働き方がディフォルトとなると、それに馴染めない人たちを排除し、異端視し、共同体の成員として迎い入れないという不寛容が生まれるおそれがある。そんな不寛容な社会を僕は望まない。
そもそも「真っ当な生き方」なんてあるようでない、ある種の幻想に過ぎないものだと僕は思っている。
僕がサラリーマン的生き方から離れて、結構な時間が経った。
世間からはもう「終わった人間」として見られているかもしれない。
それならそれでいい。
それと引き換えに、かなり生きやすくなった。
面白い人生、楽しい人生とはどういうものかを深く掘り下げて考えるようになった。
そして残りの人生を面白楽しく生きようと志向するようになった。
「落伍者」の特権を享受しているのである。
これからの世の中はますます流動的になり、変化が激しくなり、「明確な答え」が見つけられなくなる、と予想される。
安定していたとされていた世の中での価値観や度量衡が通用しなくなる。
そんな世の中においての有効な生存戦略のひとつとして非サラリーマン的生き方があるような気がしてならない。
あくまで僕の希望的観測なのだけれども。